自己観察
あるがままを見ることが、あるがままからの解放をもたらす・・Kより
自己を見ることが自己からの解放をもたらす・・東洋の賢者より
夫れ人の心は天照大神の御分霊にして我の心に非ざれば、そを養うとは
天の心を養うなり、そを傷むるとは天の心を傷むるなり・・黒住宗忠師
(※此処で言う天の心とはチャクラ・高次霊的諸体のこと)
(※私達は神の子であり、神の宮である肉体や、起こっている自我や
思考や感情や行為でもなくその記憶でもないということ)
では自己・自我からの解放を齎すという自己観察とは何か?
それは勿論、自己ではない思考の記憶を自己ではないと見ることである。
では自己とは何か?
自己とは神の子、天照大神の御分霊である。
自己観察とはこの神の子である私自己を見る事であり
自己でない思考の記憶の反応を自己ではないと見ることである。
では自己ではないものとは具体的には一体何だろうか?
それは私達自己が同一化している「脳が受信している思考や感情の記憶」である。
私達自己は私達自己ではない頭脳が受信している思考や感情の記憶を自分だと
錯覚しているのだ。しかし、私達は神の子なのだ。
自己観察とは私や世界を知覚している、その思考の記憶を思考の記憶であり
私ではないのだと見る事である。
自己観察とは内部や外部を知覚し、思考や感情のことを知覚している
思考の記憶を私ではないと見る事である。
自己観察とは私の中に沸き起こっている自我や欲望や恐怖に反応して
いる私ではない思考の記憶をじっと静かに凝視することである。
自己観察とは今後の生活を考え、将来を心配し、神の宮である肉体を
自分自身だと錯覚して死を恐れている思考の記憶の反応をじっと静か
に凝視することである。
それらの思考の記憶とは、全く私ではなくて条件付けられている脳が
受信した記憶の反応であり
それら私ではない思考や感情や欲望が脳に起こっており、その脳と
私達自己が結合しているために、私達自己は脳に発生している思考
の反応を自分だと錯覚しているのである。
そしてその私ではない記憶の反応が内と外を見ているのである。
その私ではない記憶とは
「肉体を私だと思っている」、
「記憶を私だと思っている」、
「思考や感情や行為を私だと思い、自分が行為していると思っている」、
「自分自身や世界を対象として知覚している」、
「この自己・私を私だと思っている」、
「自分に起きている思考や欲望を知覚し反応している」
「他人のことを自分ではないと思っている」、
「五感や知覚や認識、意識を自分自身だと思っている」、
私が見ている私とはそれらの記憶の反応のことである。
この私自己を本当に静かに、さざ波ひとつない湖面の様な意識で
内部と外部の起こっている事に反応している思考の記憶を観察し見てい
るならば
その時
観察しているものは自己私ではない。という。
それなので
もし、本当に思考の反応を観察し、正しく見る事が出来ているのならば
その時にはそっとそこに神の子の私が姿を顕している。という。