神とは「I AM THAT I AM」・・聖書より

2024/09/02(月)
聖書では神のことを「I AM THAT I AM」であると
書かれている。

神がわたしの主体なのだと書かれている。

神が全てのI AMのI AMであると書かれている。

I AMのI AMが神なのだと。

神が私の私なのだと。一切の私、宇宙の万物の私の私とは神なのだと。

苦しんでいる私として苦しみ生きておられるのは神であると。

殺す者も、殺される者も神が私として生きておられると。

敵も味方も、悪人も善人も神が私として生きておられると。

神が私やあなたとして生きておられると。

神が宇宙万有すべてとして生きておられると。

神が宇宙及びあらゆる次元のすべての私として生きておられると。

逆に言えば宇宙及びあらゆる次元のすべての私は神だということ。

私として悩み、苦しみ、喜び、心配し、産まれ、死を体験しておられるのは神
であると。

神が私の主体であり、あなたの主体であり、私やあなたのI AMのI AM
なのだと。

神が神々として、地球人として、あらゆる宇宙人として、高次の私や天使や
悪魔の主体の私として生きておられると。

神が一切の生物の私や、無生物の私や、テーブルや土地や家屋の私と
して生きておられる。一切万物の私として生きておられると。


そのように聖書には神は「I AM THAT I AM」である、
と書かれている。

I AMのI AMとは真我であると。

私は信じております。


※さてここでブラザーや神々も羨む超高次元からの教えがあります。
それは、あるがままの自己の姿を直視する自己観察の教えです。その
教えは私達の現実の人生では殆ど利益にならず、願望の成就にも関与
せず、いわゆる「無功徳」の教えなのです。その教えによれば
「見るものは見られるものである」と教えられています。これの理解、
それは弁証法的に進んでいくことであり、非常に高度で難解な教えです。
それは「虚偽を虚偽と見、虚偽に中に真理を見、真理の中に真理を見る
こと」であるということだと言われております。
自己に到達するためには、まず始めに自己観察によって自己でないも
のと思われる私と、その自己を見る私の分離そして葛藤がありますが、

私達とは鏡そのものであって、鏡に映っている私、即ち鏡を見ている
私は鏡ではないと教えられているのです。黒住宗忠師のいう「人の心
は神聖なる鏡であり鏡に映る我の心ではない」であります。

この鏡の自分を見ている自分と鏡の中の自分に分割している自分とは
共に我の心であり、その我の心こそが分離そのものでありましょう。

その両方の私は共に同じ我の心であり鏡自体ではないのだと。
「見るものは見られるものである」なのであり、
鏡に映っている私は鏡を見ている私即ち我の心なのであると。

鏡を見ている私と、鏡に映っている私・・それらは決して鏡そのもの
の私・意識ではないのですと。

ですので「私は私である」の中には低次の自己である自我と、それを見
ている高次の自己という、私自己の分離がないのでありましょう。

そしてそのとき本当にその鏡がわたしであるとき世界の万物一切はすべ
てが私であり、私の中に世界が有り、私の中に宇宙があるという高次の
私であるハイヤーセルフ・魂の知覚と認識があることでありましょう。

即ち自分を高次の自己と低次の自己に分割していることこそが分離だっ
たのであり、
この自己の分割分離という虚偽を虚偽と見ることの中に真理があるのだ。
とその様に教えられております。

そういうことですので「I AM I、私は私である」は鏡の意識であり
この意識の中には自他の区別もなく、私と一切万物との分離も無く、私
と神との分離も無く、
その「I AM I、私は私である」の中には「そっと愛(神・真我)が
姿を顕している」と言われています。

その自他の分離というベールが取り払われた鏡の前には、元々あった燦然
と輝く太陽が姿を顕しているということでありましょう。
現象界の実相が姿を顕しているのでありましょう。