汝の敵を愛せよ・・イエスキリスト
汝の敵とは何か?汝の敵とは誰だろうか?
→ それは私・自我である。自我とは思考のことである。
汝の敵とはこの私のことなのだ。
では汝の敵であるこの私とは誰のことか?
→ それは思考であり記憶のことである。
それは目の前の相手や”自分を苦しめる人々”を自分ではないと錯覚し、
虫や動物や命あるものや命ないもの、運命や出来事を自分ではない
と錯覚し、目の前の相手の人や世界を私ではないと思い込んでいる
この私の事だ。
自分が自我から解放されたいと思っている自我のことだ。
対象が私であり、外部は私なのに、私を肉体であり、私は思考であり
行為とは起きているのに私が行為していると錯覚しているこの私の事だ。
私は神のロボットなのに、私は私・主体だと錯覚している私の事だ。
神のロボットが自分には自由があって、自分が思考し行為している
と錯覚しているのだ。
では汝の敵を愛するとは、どういうことか?
→ それはこの敵という「私・自我・恐怖・分離」の側に一緒にいてあげて
その私・恐怖が話すことにじっと耳を傾け、その恐怖・自我の悲しみ
と苦しみを共に味わうことだ。敵がこの私だからだ。
「私・自我・恐怖・分離」を非難したり、逃避したり、判断したり、
同一化したりして否定するのではなくて、
また私を分析したりせずに私を抱きしめ、その私とひとつになることだ。
ただただ汝の敵である「私・自我・恐怖・分離」を愛し、感謝する事だ。
ではその汝の敵を愛している汝とは誰か?
→ その汝とは「私 I」 である。汝とは汝の敵である私を愛することの中に顕現
する「私 I」であることだと教えられている。汝とは鏡であり私達は「合わせ鏡」
なのだ。
では私とは誰か?
→ それに答える前に肉体も脳も私でもなく私のものでもないことを確認したい。
肉体も脳も神の最高傑作であり、神の宮であるから。ただ現在は脳は条件付
けられているのだ。
では心は本当の私だろうか?
→ いや、心は生じているものであり、脳によって受信されているものだ。
心に従って起きる行為も、それらは共に起こっているものである。
そして心とは私・自己であるから私・自己とは起こっているものである。
肉体も心も私も起きているのだということを見ているものこそ魂の私である。
私は肉体でも脳でも心でも私でもない「観照者」「意識」即ち「鏡」
「魂」である。
私は肉体でも、脳でも、思考でも、自他が分離していると錯覚する私
でもなく、それを見ている意識であり、意識である神の子なのだ。
私は鏡であり、あなたであり、私を見ている汝である観照者「IAM」
である。
「IAM」。 この汝というわたしは主体であるが故に対象ではなく
思考によって知られることは無い。汝の敵を愛するその愛の中に顕現し
ている「私 I」である。時間を超え、空間を越えて始めから実在してい
た汝即ちそれが「IAM」私である。
「IAM」は思考や知覚の対象になることはない。
「私 I」は思考の対象ではない、思考ではない意識であり主体であるから。
「私 I」は思考に依っては知覚認識出来ない。私や汝は鏡である。私は
「思考・私」ではない、何故ならば思考に知覚認識出来るのは思考だけであり
主体である「私 I」は思考ではないので思考には「私 I」を知覚できず
従って自我は魂の私や汝を知ることが出来ないのだ。
思考に知覚できるのは思考だけである。思考ではない「私 I」は従って
思考には知覚できないと教えられている。
では何のために汝の敵を愛するのか?
→ それは汝の敵のために汝の敵を愛するのである。
以上が私が思索したキリストが私達に教えておられる
「汝の敵を愛せよ」の意味である。