私達は同じ人間である

2024/07/31(水)

私達は同じ人間である。

私達は人間であるので地球人だろうと宇宙人だろうとみな同じ人間なのです。

時間や空間や次元は異なっていても同じく人間であることには全く違い
はないのだと思われます。
進化の過程は違っていても宇宙人も地球人も同じ人間なのです。

それは性別や宗教や人種や国籍や霊的深化の違いによっては人間であるこ
とに、何ら影響はしないように、○○星人や○○銀河宇宙人という空間上の
違いや、惑星の発達の違い、次元の違う星々があっても、等しく人類であり同
じ神の子であり、同じ「魂である人間」であることには全くの違いなどないのです。
私達地球人も宇宙人も同じ構造なのです。

宇宙人は自己実現を果たした惑星から時空間を超えて私達地球に援助に来
ておられるのでありましょう。

地球人にも理解出来る様に、必要もないのに、わざわざUFO円盤や宇宙船
に乗って地球にやって来ているように見せかけておられるのです。
それは、余りにも地球人が未開発で野蛮で物質次元しか理解していないからです。
地球人にも分かるようにわざわざUFOや宇宙船に乗ってきている様に見せて
いるのです。

地球人にも色々と異なる人種がいるように、ブラザー達にも色んな考えや
覚醒段階の異なる星々の方々もおられることでありましょう。が、同じ兄弟
姉妹であり、同じく人間、同じ神の似姿であることには全く変わりがあ
りません。

地球人にも魂の発達度合いが異なる人がいるように、宇宙人にも我々地球人と同
じに色んな方がおられるのでありましょう。が、しかし、それら色んな段階
・次元の宇宙人の方々も私達と全く変わらない同じ構造の人間でありましょう。

宇宙人の方々も肉体は少し異なっていても地球人と同じ一霊四魂構造なのです。

グレーと呼ばれる宇宙人は宇宙人の乗り物として宇宙人が創り使用している
身体で宇宙人本体ではありません。地球で云えば弘法大師の分身のようなも
のです。ということは高度のブラザーは弘法大師と同じ段階の人達でしょう。

今後の開星でのオープンコンタクトに備え地球人側の注意すべき点は、
私達が地球人を国籍や人種や能力で人間を分離分割してはならないように
惑星や星座や銀河系の違いで同じ人間(宇宙人)を区別してはならない、
ということ。彼らは時空間の壁を乗り越えてこの地球に来ていることからも
分かるように、その惑星とは、かなりな次元の進化を果たしているけれども
決して、神ではなくて崇拝対象でもなく、私達と同じ神の子、同じ「真我」
であるということでありましょう。

それなのに、私と宇宙人とを分離して見ている私こそ、「肉体と一体化し
ている【私という観念】」であり、人間を地球人類だけだと思い込んでしまっ
ている「集合無意識」であるということでありましょう。

私達は肉体でもなく、思考でもなく、行為でもなく、私の中に世界はあり
、私の中に宇宙はあり、私はあなたであり、万物の中に私は在り、私は万
物であると教えられております。これが究極の真実でありましょう。

地球人は「私という観念」と一体化し、「私という観念」が思考しているの
に、自分が思考している、「私という観念」が行為しているのに自分が行為
している、と固く信じ込み、私はあなたであるのに、私はあなたではな
く、私は一切万物と分離している、目の前のあなたは私ではないと錯覚して
いるといわれています。

私達は虚偽の中に生きているわけです。

私達は私という観念(虚偽)の中に生きています。
私は「起こっている私という観念」と一体化しています。

私達は自分は霊であり神の子であり、すべての対象は私であり、「私の中に
宇宙が有る」ことを完全に忘れ果てているといわれています。

霊的解剖学によれば
A:「輪廻転生していない魂と繋がる高次思考体感情体であるサイコノエティッ
   ク体」と、
B:その輪廻の度毎に新たにその転生にて身に纏う肉体と共に成長する思考・感
  情体(幽体霊体)=個人人格(受動思考)があって

通常私達が幽体霊体と云っているのは、肉体と共に形成される受動思考・受動感
情体であるBであり、
それはこの自分を肉体だと思っている「私という観念」でもあり、人
格である私達のことでありましょう。

人格という私、それは「私という観念」の記憶の反応です。
私達である魂からの高次サイコノエティック体の私は殆ど眠っている
からです。

私達の表面意識の私とは、たましいの鏡のことですが、この鏡を
覆っているこの思考体感情体の私と私は一体化してしまっています。
この記憶の私は自分と他者を分離し、他者は利用しています。
記憶には「見るものは見られるものである」は理解出来ないのです。
が、しかし実際には、私達は鏡なので、鏡を見ている私は鏡に映ってい
る私であり、その両者の私とは「鏡である私」ではありません。

この私が自分だと思っている私とは鏡を覆う記憶の私であり鏡の私では
ありません。

この私は自分が行為していると実感しているこの思考体感情体の私であって
カルマによって誕生した肉体と一緒に形成された人格の私のことです。
この私は「万物と一つである私」神の子の私を覆う記憶です。

この鏡からの未発達のサイコノエティック体の私が同一化してしまっているのが
この私です。この私とは、記憶の私で、人格の私のことです。自分が行為していると
実感している私です。それは、カルマによって
転生の度毎に異なった人種や国に生まれる私のこと。この私とは肉体と一緒に産
まれた幽体霊体の意識に他なりません。それは自分が行為していると実感してい
るこの私のことです。相手とは自分自身のことだということが分からない私です。

【高次元】(※自我の源泉)からの受動思考の私、記憶の私と云われている私
のことです。

このカルマの領域にいる思考体感情体のこの私(記憶)には、決して
思考や行為が思考者や行為者であるこの私(記憶)なしで起こってい
るのだとは夢にも思えません。
この思考者、行為者としての私は実は起こっている思考や行為の記憶
であり映像だからです。
この記憶の私は「自分が行為している」、「私が思考している」
「他人は私ではない」、「私は肉体だ」と実感しており、自分が
思考し行為していると知覚認識(実際は錯覚)しています・・

・・である以上はこの記憶の私は、自分自身である記憶の私を「偽りの自由意志」
でもって愛さねばなりません。
この私は
私に襲いかかる悪魔や殺人者は私自身であるのにそれは私ではなく敵だと認識し
ています。
私の敵や殺そうとしている相手とは私自身なのに「敵を愛せず」に敵と
戦ってしまっています。
自由意志は起こっているのに、私は自分が自由意志で選択し行為して
いると実感しています・・・
・・・ですのでその自他が分離している錯覚の次元にいる限りはその
偽りの自由意志で以て「汝の敵を愛し」「自分を殺す者のために祈れ」
という正しい行為(八正道)をしなければなりません。
即ち自分が行為していると実感している限りは、この迷いの次元の中
では、私達は起こっている偽りの自由意志を用いて正しい行為をしな
ければなりません。
正しい行為とは「汝の敵を愛せよ」です。
根本無明の中にいる間は
自分が行為しているという錯覚の中、正しい行為をなさねばなりません。
ですので、この自分が行為しているとの、虚偽の実感がある間は、この
私とは記憶です。記憶の私は正しい行為を、偽りの自由意志でもって行
う必要が有ります。自我(私という観念)からではない行為は行為者
を含まないのです。

如何なる時も、如何なる状況でも一瞬一瞬を愛と感謝の波動で生き
なければなりません。内と外に起こる出来事を愛と感謝で受け容れ
八正道を実践しなければなりません。自分自身を愛さねばなりません。
自分自身に感謝しなければなりません。

私を高次の私と低次の私に分離、分割しているのは、低次の私です。

高次の私には全てが神であり、神以外に何も見えていないからです。
魂の私であるなら、全ては私であり、私の中に世界があるからです。
そういうわけで宇宙の中に悪魔や敵を見ている私は魂の私ではあり
ません。
悪魔やブラックや敵や味方を知覚し、善悪を知覚認識しているこの
私とは、魂の私ではありません。
世界や宇宙を私の対象と見て、世界を改善しようとしている私とは起こっ
ている思考や行為の記憶に他なりません。
何故なら、その私は世界や自分自身も対象と見ているからです。
本当の私であるなら私と世界を分離したり、私とあなたを分離したり
、私と低次の私と高次の私に分割したりはしないからです。

思考や行為やカルマは「私という観念」が肉体・人格・幽体霊体を通じて起こ
しているのであって、老子達が云うように本当の魂の私は行為していないので
ありましょう。魂の私には思考や行為や出来事は起こっている映像なのです。

ラマナ・マハリシ達が教えるように、それは魂からの次元から見れば「全ては
起こっている」「誰も行為していない」「全ては完全完璧である」ということ
になっているわけでありましょう。
それはまた、ラーマクリシュナがいうように私は神の映像と言うことなのかも
知れません。
私が生きているのではなく、神が私として演じておられるのです。と、

賢者達はこのカルマの次元領域を超えた魂の私として、彼岸からこの起
こっている思考や感情や行為や出来事である私を観照しておられます。
そしてその思考し行為している記憶の私を高次元から映画を見ているよ
うに観照しているのだ・・と教えられております。

この彼岸からの魂の知覚をラマナ・マハリシやクリシュナムルティー達は
「誰も何も行為していない」などと話すのですが・・この自他に分離して
いて自分が行為していると実感している映画(三界)の中の私には、その
映画を観照しているこの魂からの言葉は全く理解することが出来ません。

ラマナ・マハリシ達は何を言っているのか全く理解出来ません。
勿論この私がそうなのです。


この私は記憶の反応、起こっている思考と感情と行為の結果なのです。
この私は自分が自由意志で行為し、思考していると錯覚しています・。
それゆえに、その錯覚の中で、その結果である私は正しく思考し、正し
く行為しなければならないのです。
この私には「分離」という錯覚しかなく正しい知覚がないので誤解するしか
できないのです。誤解の中で虚偽の自由意志でもって正しく思い行わな
くてはなりません。


私が推測するに・・
・・これは非常に複雑なのですが・・
この自分が行為していると錯覚している私とは・・
映像の中の私なのでありましょう。

三界という現象界の映画の中の登場人物がこの私です。
それは映画を観照している魂の私ではありません。

この「自分が行為していると実感している私」とは新たな転生で肉体
の胎児の形成と同時に母体内で形成されていくアストラル体メンタル
体の私のことであって、受動思考の私です。それはこの人格のこの私
の事です。
それと異なり、魂の私とは
母親との臍の緒が切断されたときに最初の吸気と共に肉体に結合され
る肉体に入ってくる魂と繋がる高次サイコノエティック体の私のこと
であろうとおもわれます。これは観照者の私です。

ですので思考体感情体にも二つの系統があり
私という観念が肉体に結びつき「私は肉体である」と錯覚し、カルマに基
づいた思考感情体とその集合無意識の私。「自分は個人で他者ではない」
「私と世界は別々だ」「私は肉体で、私が行為している」のだと実感して
いる記憶、人格の私。

一方は輪廻転生していない魂と繋がっているが未熟な高次思考感情体の私。
いわゆる神道で言う所の一霊四魂と呼ばれる魂と繋がるが未熟で
未形成の思考感情体・サイコノエティック体の二つがあり

さらに肉体には入らず頭上に輝き転生していない時空を超え、自他の分離
を超え宇宙と一つである魂自身の鏡としての「万物と一つである超意識の私」。
観照者の私。「I AM」。

いずれにせよ
地球人にせよ宇宙人でも構造はみな同じなのですけれど
その魂と繋がるサイコノエティック体の再形成度合(状態・程度)によって
話す内容も違ってきます。

宇宙人は地球人に理解して貰えるように
自分を肉体やカルマを持った肉体側の思考体感情体に分かるように
「私は○○星人」だとか「私達は○○銀河系人種です」とか話したり
しているのだということです。宇宙人によっては一番外側の肉体と一体化
しているいわゆるカルマの領域にある幽体や霊体(魂と繋がる高次サイコ
ノエティック体のことではない)意識のレベルである場合もあるのかも
知れません。・・私には目が覚醒していないので見ることが出来ないのですが。

魂と繋がるサイコノエティック体が再形成し覚醒していれば、自分を肉体と
同一化して、自分は○○星人だなどという自分と相手を分離する知覚感覚
はなく、内部と外部の分離や、時間空間という認識形式の意識もないことであ
りましょう。それは「I AM」であり、観照者の意識であることでありま
しょう。

しかしそれでは地球人には意味が伝わらないのでわざと「私は○○星人」
だと言っているのだということでありましょう。

色んな星の方々もそれぞれの星の深化段階によって、異なる次元にいる
と言うことなのであると思われるのです。

しかしすべては同じ真我であるように
全ての宇宙人類はこの地球にあっても他の銀河にあっても同じ構造の
魂、宇宙人類はみな全員が神の子であり一つなのでありましょう。
私達は善悪や敵味方、悪魔と天使を含め一つなのです。