真我探求には思考は相応しくない

2024/07/21(日)
真我探求には思考は相応しくないので真我探求では思考は使えない。

自己探求や自己想起に思考は使う事は出来ない。
思考とは「受信器であり条件付けられている脳」からの情報の記憶であ
て、思考とは以下の様に「分離」をベースとして構築されているものである。
わたしとあなたの分離分割、
私と世界の分離分割、
私と宇宙との分離分割、
主体と客体即ち見る者と見られるものの分離分割、
時空という分離している認識形式、
内と外、内部と外部、内面と外面の分離
等々であるので、思考の知覚認識の領域は非常に狭く偏向して
いて、「私は誰か?」の問いに対しては、思考には正しく答えることが出来
ないのだ。
思考に依る「私は誰か」の回答は「私は思考である」ことだろう。
しかしながら思考が如何に精査し極めても、その思考自体の本質を思考は知らない。
思考に依る「私は誰か」の回答は全てが間違っている・・思考だからだ。
というのも「思考は私は肉体であり、私はあなたではないと思考する」からだ。
思考は、あらゆる質問に対して思考でもって答えられると思っているのだが
思考はあらゆる質問に対して思考でもってでしか答えることができない。
思考は思考を超えた「意識」を知ることが無い。
「思考は思考自らを知らない」ということを知らない。
「思考は私は知らないと言うことを知らない」のだ。
従って
思考には、答えることが出来ない質問に対しての回答は思考では回答に
ならない。それらに対しては、思考の正しい回答は「黙すること」「私
は知らない」ということなのだから。
思考にはたったひとつの細胞のことすら知らないのに、眼球による視覚で
得た思考に依る情報で「自分はすべてを理解している」と錯覚している。
そして、思考は錯覚していることにすら気が付かないでいる。

未知なる現象に対しては思考は沈黙せざるを得ないように、「私は誰か」
の前には思考はただただ沈黙する以外にない。
何故ならば「私は未知であり、肉体でもなく思考でもないから」だと。

それゆえ思考による「私は誰か」に対する回答、考え、観念、概念、言葉
あらゆる説明、それらのあらゆる情報はすべてが限定され的外れで間違
っている。その思考による回答とは条件付けられている脳の反応に過ぎ
ないからである。
なので、思考には「私は私を何も知らない」「沈黙する」が一番正しい
態度である。
なのに愚かにも地球人の科学は科学という思考以外に知らないことを
否定してしまう。

思考は、現象界については、全てを知っており何でも知ることが可能で
あり、全てに答えることが出来ると思っているのだが、それはまったく
違う。
その逆で思考は何も知ることがなく、知ることが出来ないのだ。
知ることが無く、知ることは出来ないのだということを思考は自覚し
ていない。

現象界については、思考は何も知らず何も答えることが出来ない。

まして、これ以上の高次元で実相界の次元のことがらに関しては
思考には近づくことなど一切全く出来ない。
思考とは起こっている結果であり、その結果の記憶であるからだ。

思考は条件付けられている脳が受けとった情報の結果であり、
脳のその狭く限定されている範囲内でしか機能せず、それ以外
の大きく拡がる知覚認識は思考にはできない。

思考が作動し知覚認識できるのはそのごくごく狭い限定された知覚認
識範囲内のみだけであり、思考が答える「私は誰か」の回答は全てが
間違っている。
思考が捉えられ知覚できるのは脳の記憶だけであるからだ。
いのち、生命、たましいなどは記憶では全く知ることは無いし、理解
出来ないし何も答えることが出来ない。
自分は無知だと言うことを自覚していないからなのである。

「その問題に対するどんな解答や活動も〈恐怖・自我即ち思考〉である
ことを知って、その問題に対して静かであるとき
・・・中略・・・
思考から自由になろうとする、思考からの欲望がないとき、

又はその思考から自由になるための思考による努力が全くないとき・・
この思考の動きが全くない状態から心は全的な変化が生じるのです。」

「至るのではなく既に在るのです」「何かになるのでもありません」
「至るのでもなく、為るのでもなく既に在るのです、既に今此処に在ります」
・・Kの言葉より。

※思考には三種類あるが上記ではおもに受動思考のことを思考と言っている。

①受動思考⇒条件付けられた脳からの記憶の反応であり、人格や個人、自我と言われている。
      受胎時に肉体とともに形成される思考体感情体のこと。潜在意識の一部を構成
      している。
      死後も継続して活動するが転生する魂からのサイコノエティック体ではない。
      カルマやDNAなどによって思考や行為がプログラムされている自我のこと
      で魂からの私達にはこの自我に対する支配権は持っていない。
              
②能動思考⇒新しく開いた魂からの目としての私であり、形成されていない霊的諸体即ち
      サイコノエティック体からの思考であり、輪廻転生して継続するが目が開いて
      いない私、この私が人格の私と同一化することでカルマを引き受けてしまう。

③高次思考⇒自己自我を含まない純粋理性、純粋法則性・数学性に基づく高次知性理性。
      魂からの純粋知識・・これに関してはわたしはよく分からない。