私も私の思考、感情、行為も起こっている
何故なら
私が生きているのではなくて、源泉・根源が私として生きておられるからだ。
肉体は起こっている・何故なら肉体は私が創って私が維持しているものではないから。
肉体は至高の叡智の結晶です。
肉体は私のものではなく、私の肉体でもなく、根源が生きておられます。
私は肉体ではありません。
脳は起こっている・・何故なら脳は私が創って私が維持しているものではないから。
脳は至高の叡智の結晶です。
脳は私のものではなく、私は脳ではありません。
私は脳と結合したのですが脳は私ではありません。
思考は起こっている・・何故なら思考は私が創ったものではなく、思考こそが私、人格であり、
脳の結果であるから。
思考は創造されたその脳が受信し、脳から発信しているものであって
その脳が発信している思考の記憶が「自分は私だ」と主張しているのである。
脳が機能しているからこそ、思考も発生し私も発生しているのである。
私とは脳が受信し発信した記憶なのである。
この記憶が「自分が思考している」「自分が行為している」と思考している。
思考は最高叡智のリーラです。
思考は私のものではなく、私は思考ではありません。
※思考や感情には記憶の反応としての受動思考と受動感情があって、私達人格とはその
記憶である受動思考や受動感情で構成されているサイバーロボット・機械である。
そしてそれに対しての能動思考や能動感情といわれているサイコノエティック体からの
思考も表面意識に現れることもあるが、これは通常の人生において活動が余り多くは見
られない純粋知性や純粋理性のことである。
この二種類の思考はしかし更に高次の次元から見た場合、それらは共に起こっていると
いえる。
※ここでは全く異なる意味で「私」という同じ言葉を使用していますが、中身は全く異な
ります。
高次の私が顕現し意識化していない段階においては高次の自己と、低次の自己とを分割し分
けることは、思考に依る解釈であり、久保栄治には高次の自己の意識が顕現していないので
それらを識別することが出来ません。
行為は起こっている・何故ならば行為はその起こっている受動思考や
能動思考から発生しているように思われているけれども、
行為とは脳と神経組織や筋肉組織や骨を一体化した複雑な
連係プレーで成り立っていて、それらは全て付与され与え
られたシステムであって根源が創造し、使役している脳が
機能しているからこそ行為は起こっているのである。
この機械である私という記憶のロボットの私、即ち記憶
という人格が行為しているのではない。
即ち如何に記憶である私が自分が行為しているのだと信じ
ていても実際には行為は脳があるからこそ起こっており、
記憶が行為をしているのではなく根源が脳を使って行為
し、その脳と結合している人格の私が「自分の自由意志で
自分が選択し行為している」と錯覚しているのに過ぎない。
源泉から脳が受けとった指令に基づき肉体は行為を実行し
ている。
そして脳と一体化している記憶は「自分が肉体を動かしてい
るのだ」と錯覚しそのように思い込むのである。
・・これは猿や動物たちも同じだ・・。
さらに記憶という人格が脳を動かし行為しているという実感
(錯覚)を脳が起こしており、「高次元の根源」が脳を通じ
て肉体を動かし行為していることを脳も脳からの記憶人格も
同じように自分の自由意志で自分が決定し、自分が選択し、
そして行為していると思わされているのである。
行為は私が為ているのではなくこの特定の肉体のプログラ
ムに従って起こっているのです。
肉体や脳と結合した私は行為していないのです、が自分が
行為したという錯覚から行為の責任(カルマ)を身に受け
る事となります。
しかし行為と一緒に発生した行為の記憶(人格)にはその
行為の責任(カルマ)は発生することでしょう。
知覚認識は起こってる・・この私達の知覚認識というものは、条件付けら
れている脳の知覚認識であって、この知覚認識はそれぞれの
動物や昆虫などの生物と同じく私達人類の認識領域の知覚現
界は脳によって決定されており、人類はこの条件付けられて
いる脳以外の知覚を認識することが出来ない。
波動が異なり、次元が異なるものは一切知覚できない。
私達が自分だと信じ込んでいる知覚は脳の知覚であり、その
脳は私達人間の創造物ではなくて創られている被創造物であ
り、この人間の知覚とは私の知覚認識ではなくてこの付与さ
れた肉体脳の知覚であって、知覚認識とは起こっているもの
なのである。
この自他の分離の知覚は私の知覚ではなく起こっているマー
ヤの知覚です。
ですからこの知覚は私のものではなく、私の知覚ではありません。
私は起こっている・私達人類は何の疑いもなく、自分が生まれ、自分が自分の
人生を生きて自分が歩み、そして死ぬと・その様に思っている。
この私の誕生や成長や死亡とは実際は与えられていることで
あって、この私自身がこの私自体の自由意志でこの私の存在
条件を決定し生まれてきているわけではない。
性別や人種や国籍や才能や障害や環境は、この私が決定して
自分に付与したのではなくて、その逆にこの私自身が付与さ
れ起こっている虫や岩と同じく私達人間は起こっている一つの
現象なのである。
即ちこの私とは昆虫や動物や万物などと同じく根源から起
こっている被造物なのである。この起こっている私とは神が
演じておられる「演技」なのだ。
この私は、「宇宙である私」を覆い隠している「神の演技」
でしょう。
ですから
私は私のものではなく
私はこの私ではありません。
従って「私は肉体ではない「私はマインドではない」と言うことの出来る
「私にとって未知なる私」「魂の私」が顕現するためには、
その前にこの人格という私が「私はマインドではない」という私に吸収さ
れ合体され必要が有り、その為にはこの複合次元体の私が持っていて使用
可能な能動思考を可能な限り使って、自己想起を常に実践し、自分自身が
清まり浄化されてていく必要が有ると思っている。