神は愛なり・・イエス・キリスト

2024/07/03(水)
神は愛なり・・イエス・キリスト

世の中には
神がいるのだろうか?
神とは何だろうか?
神がいるのならば証明してみよ!
私が神である!
等々の色んなナンセンスが横行している。が

キリストは言う
神は愛であり、愛が神なのである!!!と

「神は愛である」「愛とは神である」と。

世界には色んな神がいるけれど、真の神とは愛であるということである。
真の神とは全ての次元を貫く愛であると云うことである。

では、その愛とはなんであるのだろうか?
それは
内と外、見る者と見られるもの、私とあなた、私と万物一切が一つであること。
「私はそれである」ことだろう。
哲学的に言えば「主体と対象は一つ」「見るものは見られるものである」だろう。

私達が本当の意味で愛するとき、最早、主体と客体が分離していない時、私は
あなたであり、あなたが私であり、万物の一切が私であるとき、宇宙が内部に
ある時、観察者が観察されるものであるとき、それが神なのだということだろう。

但し此処で言う愛の意味とは所有するとか、自己満足という意味では勿論ない。

この愛とは一切万物が私であり、私の中に一切万物、宇宙が有るという状態
のことなのである。そしてそれは又、一切万物の中に私がいるということ。
草や木々や動物やお皿やテーブルや目の前の歩いている人や車や家が私だと
言うこと。
そしてそれが内なる真の私・神が顕現している状態でもあることだろう。

腹部からの受動思考が自我であり、一切万物と私を分割している記憶のこと。
即ち今回の人格の私のことであるが、
人格と一体化して混濁している私達未熟な霊魂が
それら潜在意識にある記憶・受動思考に対して愛を注ぎ感謝するとき、
即ち
頭部頭上からの能動思考がそれら内と外の一切の起こる出来事を受け容れて
感謝し、
それらの起こっている内側と外側の全てに対して愛を注ぐとき、
それら内部と外部に起こることと私が分離していない時、

そのとき真我(内部と外部を超えている神)からの恩寵によって、
私達は清まり、(人格群が内なる魂に吸収されるとき)
ハートに在る思考を超えた「愛」が顕現すると言われている。


では愛することとは何か?

愛している状態とは私主体が対象そのものであること。
即ち私はあなたであり、世界が私であり・・それは全ての次元を貫く超
次元・状態のこと。
「見るものは見られるものである」の意識状態のこと。
「立ち向かう人の心は鏡なり己が姿を写してや見ん」の意識状態のこと。
その時
私が自我であり、私が恐怖であり、私が敵である・・と、そこには愛が訪れ
神が姿を顕している状態。
それが愛であり神が私である超意識状態のこと。
神と繋がっている魂から自我という覆いが取り払われた状態のこと。


ではその神である愛とは何か?
それは私が世界であり、私があなたであるとき、の状態のことである。
自他が分離しておらず、「私は肉体ではない」「私は心でもない」との
その私・真我の超意識が顕現している状態のことである。全ての次元を
包括し且つ全ての次元を支え超えている状態である。

それはクリシュナムルティーが言うところの
「見るものは見られるものである」「観察者は観察される者である」
の意識状態のことである。

そしてその状態とは見ているものと見られている対象が一つである状態・・
即ちそれこそが愛の状態・・神(真我)が顕現している状態である。


具体的にはそれはどういうことであろうか?
それは内側と外側の起こることの全てに対して逃避したり、非難したり
、一体化したりせずに、全てを有り難く感謝して受容していること。
良いことも、良くないことも全ての起こることの一切を受け容れていること。

内と外の起こっている事を観察している私を暖かく抱きしめていること
である。

恐怖を見ているものは恐怖であり、欲望を見ているものは欲望であり、
それが此の私であるということ。

目の前の殺戮者は私であり、自分を殺そうとしている敵はわたしであり、
ゴキブリは私であり、台風は私であり、机は私であり、蜘蛛や空は私で
ある。一切万物と私は一つである。・・という超意識の状態。
・・・と
その様な受動思考や能動思考を超えている高次思考が生まれているとき・・。

苦痛や絶望や自我や非難や自尊心やプライドやエゴを観察している私がそれら
自我と分離していない状態のそのとき・・。

・・即ち、私が観察している対象を分析したり、判断したり、逃避したり、
一体化したり、改良しようとせずに、それらをあるがまま受け容れ、それらを
しっかりと抱きしめ、尚且つそれを観察している対象が私自身であるとき、
即ちクリシュナムルティーのいう「観察者は観察されるものである」その
とき
・・その主体と対象が一つであるとき

そこに愛が即ち神(真我)が顕現している。

と言うことである。

内部と外部の対象の全てを受け容れて抱きしめ、愛し、耳を傾ける
という意識状態、即ち観察者と観察される者が一つである状態が
愛即ち神である。
・・・ということをイエスキリストは言っているのである。


その観察者と観察される対象が分離していない時
そこにそっと愛が姿を顕している。と

即ち、その「見るものが見られるものである」とき・・そこに神が
出現している。と言うことだろうか。

私が自我であり、私が目の前の苦しむ人であり、私が苦悩や絶望や
競争心や利己心や欲望であり、それらから逃避しようとせずに、
それらと一体化することでそれらから逃避しようとしたりもせずに、
それらを抱きしめ、それを愛し、感謝し受け容れるとき、そのとき

そこに愛が即ち神が即ち真の私がそっと姿を顕している。
とキリストは教えておられるのではないか。