心は自分を相手として知覚している〈詠み人知らず〉

2024/06/13(木)
心は自分を相手として知覚している。〈詠み人知らず〉

黒住宗忠師「立ち向かう人の心は鏡なり己が姿を写してや見ん」
の深掘り、以下はその感想です

「心は自分を相手と知覚している」・・ということは何を言ってい
るのか?意味がよく分からないのではないでしょうか。

それは平たく言うと「私が非難している目の前の相手は私自身です」
「目の前の私のことを無視する人は私自身の姿です」ということでしょう。
「私が恐れている目の前の人とは私自身である」ということでありましょう。

但し、この知覚は三次元や四次元の知覚ではなくて七次元の高次の知覚だと
言われています。
ですから、いまだ高次元の知覚がない私達にとっては全く理解することが
出来ないわけなのです。

テレビや新聞、スマホやPC、教育や文明によって洗脳されてしまっ
ている地球人類には、全く以てこの黒住宗忠師のいう言葉は理解されない
ことでありましょう。
かく言う私もその一人なのですが・・。

前述の真意は私達があなたとして知覚している他人とは実は自分なのだと言
う意味です。
私の目の前のあなたとは私自身なのに私達は相手を非難します。
また同様に私自身のことをも非難します。

分かりやすい言葉で言えば「私はあなた」「貴方は私」というこ
とでしょうか・・

私が戦っている相手、私の敵とは私であり、私が軽蔑している相手、
とはこの私だと言うことなのです。

私を苦しめている相手や、目の前の恐ろしい化け物、私のことを拷
問する相手、そして恐れおののいている私も私だと言うことです。

これは一般の常識からすれば勿論受け容れられることではありません。

が、覚者達は、この一般常識というのは実はマインドが見ている知覚の
ことであって、マインドを超えている「高次の意識」から見た場合は
「私とはあなた」「私は世界」であると言うのです。

そしてそのマインド・心とは自分は個人だと錯覚している「人類全体
で一つの同じマインド」だというのです。
ですからマインドの本当の姿は分離しているのではなくて非分離であ
り統合であり全体で一つだというのです。

人類で同一の同じマインド・心が自他を分離し、そして他者だけではなくて
自分自身さえをも対象として見て自己を非難しているのだというのです。

人類で同一のマインドが、お互いに争い戦っている自分自身なのだという
のです。そのマインドはその自分のことを知らずに、私は世界とは別であ
り、私と他人とは分離し異なっていると錯覚しているのです。

ですが実際には私であり、あなたであるマインドが世界であり、マイン
ドが人類であり、その世界である私・マインドが自他を分離し自分と世
界を分離させているのです。

マインドを直視しなさい。
マインドから逃避したり、非難するのではなくて
マインドをあるがままに観照しなさい。
マインドに愛と感謝を捧げなさい・・と言われております。

マインドである私自身のことを私の頭上から観照しなさい。と

知覚し、思考し、行為し、思い悩んでいる私・マインドを頭上から
愛と感謝を持って観察しなさいと仰るのです。

そして
本当の私は肉体やマインドではなくてこの観照者・魂だというのです。

「マインド・心は相手とは自分なのに。相手は私ではないと知覚している。」
「他人と知覚されている相手は自分自身である。」というのです。
そしてそのマインドは自分自身をも分割し対象として見ているというのです。

この知覚は幽界や霊界や神々界などの4~6次元の知覚認識ではなく更に
高次元の魂の認識なのでありましょう。

「世界を見て認識しているのは心であり、そして心とは世界であるのに、心
は世界を自分とは異なる対象だと、全く逆に知覚している。」と。
「心は自分と対象を分割し、恐怖を見ているのは恐怖であるのに自分は
恐怖の観察者だと錯覚しています」

「心は相手や世界を、自分とは異なる対象として知覚している。対象を
知覚認識している私とは心であり、その心は世界で一つであり、世界は心
である。」と、
・・これは仏教で言う「三界は唯心の所現」と全く同じです。

「心は、自分が嫌悪し、自分が非難し、自分が競争し、自分を殺そうとして
いる相手とは私とは同じ私なのに、自分を敵や他人だと錯覚して争い非難
し競争している。」と
その私も貴方も同じ同一のマインドなのだと言っているのです。

「人類で同一のマインドが自分を肉体と同一視して自分は肉体であると
錯覚し、自分自身を敵と味方に分離し対象として知覚している」と言うのです。

「心の知覚とは自分自身を自他に分離して見ている無知、錯覚。」であると。

「”心は知覚認識している対象は自分ではない、自分とは異なる存在だ”と錯覚し
ているのだ。」と

「心が戦い争い殺そうとしている内外の敵とは、自分自身なのに心は相手とは
自分自身ではない敵だ、なんとかしなくては・・と錯覚している。」

「敵、対象は私ではないと知覚しているのはマインド・心である。
他者・対象とは自分のことであるのに、自他を分離して、自分を他者として知
覚しているのは、実は人類で同一の同じマインド・心なのだ。」と

「マインドは自分自身を見る私と見られる私に、分離分割し、そして自身は
肉体だと錯覚し、自分を相手・他人として分離し知覚認識している」と。


「そのように自分自身を自他に分離しているのは心、マインドなのだ。」

知覚認識しているものは知覚認識されているもの。
「見るものは見られるものである」と言うことでありましょうか。
「観察者は観察される者である」と言うことなのでありましょうか。


「マインドは自分自身を見るものと見られるものに分離している。」

「自分自身を見るものと見られるものに分離して見ているのはマインド

である。」

・・・と以上のように教えられているのです。

人類や他の惑星や高次元存在という生命体の認識次元では全く理解不
可能な「心やマインドを超えた超高次元」の超意識から見た真実を黒
住宗忠師は私達人類に語っているのです。

蛇足ながら
ここでこの文章を読んでおられる方が誤解しないように、私が理解している
マインドとは個人個人の記憶を含めた全人類のサーバーのようなものであり
個人個人の内面を構成する夫々の異なる人格、異なる思考のその根底に
あるこの同一のマインドが「魂からの表面意識」を覆い隠しているのだとい
うことを述べさせて下さい。そして上記の黒住宗忠師の言葉とは死後の世界を
遙かに超えた高次の次元の知覚なのです。

①マインド・心
 ここでいうマインドとは人類の集合意識、個人個人の記憶の集合意識体
 であり、シャンカラの言う根源的な根本無明「私という観念」だと思っ
 ています。個人の思考の記憶を波に捉えるならば海のようなものであり
 ましょうか。人間の集合無意識であり、この中には人間の②からの思考
 が全て入っています。根本無明、根本無知、マーヤのこと。
 しかし通常の人生に於いては私達はこの人類共通の根本無明・人類の
 集合無意識に気づくことは殆どないと思われます。

②受動思考
 個人個人の「魂からの表面意識」を覆い包んでいる上記の私という観念の思考
 のことであり、脳が受信した思考の記憶のことです。それは又、人格のこと。
 上記の「私という観念」が各個人の脳を通じて受信された記憶のことであり
 この記憶の反応のことを一般的に「受動思考」と呼称されております。
 魂からの表面意識はこの脳からの受動思考を自分の思考だと錯覚して
 いて、受動思考=記憶と自己を同一化しています。
 私達はマインドという根本無明と一体化して、肉体を自分だと錯覚し、
 常に自己関心であり、自他を分離し、悲しみと苦しみの中に生きてい
 ます。その私とは別名、人格、個人とも呼ばれています。
 しかしながらその個人人格とは「私という観念」の記憶であり私で
 はないマインドです。

③能動思考
 上記の受動思考を自分の思考だと錯覚しているのが「魂からの表面意識」で、
 この「魂からの表面意識」から発生している思考を「能動思考」とよんで、
 記憶からの「受動思考」と、この「能動思考」は区別しなければなりません。
 クリシュナムルティーなど七次元を超えている彼岸にいる超意識からはこ
 の①~③をまったく区別することなく「思考」と一括りにして表現されて
 おりますが、同じ思考でも受動思考と能動思考は全く異なります。
 思考にも記憶からの反応である「受動思考」と、未熟であっても魂からの
 私である現在のパーソナリティーの「能動思考」があるのです。

④高次思考
 正確には思考ではなくて意識の事であり「魂の意識」であり、私達がいる
 三次元や四次元では知覚認識出来ない意識、魂からの意識なので、私達
 には理解不能です。それは私達の認識形式である思考を超えておりますが
 私達がそれに触れた場合思考と捉えるので、敢えて「高次思考」と言います。 
 この思考は私が思考するのではなくて、思考が起こるのを私達は観照している
 ということになります。
また「私」に関しても
肉体とは私が宿る神の身体であり
私・魂の身体はこの時間と空間に縛られている私ではない。という前提から
種々の運命やカルマや障害や才能と言った肉体に関連した性質を除外している
私。
人類の言語や、AIの思考の情報や、私という観念には理解不能なこの霊魂の
「私」のことを私と言っています。

それで、肉体に宿っているこの霊魂の私と、以下の様に
夫々の次元での異なる私が一緒に共存しているので、それら
の私を区別することなく私と言っているのだと思われます。

①人格の私
 通常の人生で私と言われている私。脳からの情報や思考の記憶の反応
 である私、この人格の私である記憶からの思考が「受動思考」と呼ばれている。
 人格の私とは通常の人生で魂の私が誤って自分だと錯覚している記憶である私。
   また、その人格とは今回の名前を持った私だけではなくて過去世の夫々の私で
 もあり、この過去世の人格の私を愛し抱きしめ、私からの話を聞いてあげることが
 今回の人格の役目でもありましょう。  
 この人格の私とは肉体の死後も魂の私と共に継続するが輪廻している四次元の私
 なのであって、霊魂本体の私の首飾りの夫々の数珠玉のようなもの
 この各数珠玉を繋いで首飾りとしている「靵」が輪廻転生している魂のコー
 ザル体と呼ばれている。
 

②集合無意識としての私
 ①の人格の私の根源根本にあって人類の意識を構成している人類で共通の
 「私という観念の私」。根本無明の私。
 その私とはいわゆる仏教で言われる「私は存在していない、私とは無で
 あり空である」
 と看破されている神の根本無明としての私。
 究極的には非存在の私、神のマーヤ。

③輪廻転生している魂の私
 この魂の私が肉体と結ばれ、誕生し②や①の私を、私だと錯覚し同一化して
 しまっているということ。
 このマーヤから脱出することがこの輪廻転生している魂の私がこの世に生
 まれてきた目的なのである。
 「なる、する私は私ではなくて、私は在る私だ」と言われている私。

④シャンカラや不二一元でいう「アートマン」の真我。いわゆる霊としての
 霊魂である神の子の私。一切万物である私のこと。内なる本当の私。
 ただし、このアートマンとしての空なる霊の私は仏教では否定されており
 「諸法無我」といわれておりますが、この「諸法無我」と看破している
 主体こそがアートマン=真我でありましょう。
 この「一切万物と分離していない全てであるアートマン」「一切万物で
 あるアートマンの私」とは生まれることもなく、死ぬこともなく輪廻転生
 もしていない真の私「I AM」である。と教えられております。