自己観察とは一体何のことでしょうか? また鏡とは?
それは「自己を見ること」でありましょう。
では
自己を観察すること、即ち自己を見るということは
如何なる事なのでしょう?
それは
非常に実践においては難しいのですけれど、
結論からすると
「鏡から自己を見る」事であります。
え!「鏡から自己を見るだって」それは全く理解不可能です。
しかし「鏡から自己を見る」とは如何なる事でしょうか?
それは「鏡から自己を見る」という自己観察とは
鏡に映っている自己、即ち見ている自己が見るのではなくて
鏡が、その鏡それ自体から、「私なく」「鏡自身」として、
鏡に映る自分と鏡を見ている自分を見る事なのでありましょう!!
鏡に映る自分とは、鏡の自分を見ている自分であり、見られている自分です。
自分を観察している私は、観察されている私であることを見るのです。
このことを理解するためには条件付けられている脳からの受動思考ではなく、
魂の霊的諸体からの能動思考若しくは高次思考の知覚が必要なのです。
観察者は観察される者であることを見るのです。
このことを見ているのはひとつ上の次元の知覚であるのに相違ありません。
このことを見ている私は魂に繋がるサイコノエティック体の私でありましょう。
此処は非常に理解するのが難しいです・・。
通常での鏡を見るということにおいては、
鏡に写し出されている自分とは誰でしょうか?
それは、鏡を見ている自分でもあります。
・・そのことは勿論だれでも分かります。
なので
その鏡に映し出されている私を見ている私は誰でしょうか?
それは両方とも同じ私なのです。
それは実は、鏡自体が私を見ているのではなくて
鏡に映る私、即ちこの鏡を見ている私自身が鏡を覆ってしまっていて、
鏡を占領し、鏡を名乗って、鏡の振りをして、私を見てると言うことであります。
・・それは自己観察ではありません。
・・それは自我の堂々巡りで、実際には私を観察していることにはなりません。
一般的には自分が自分を見ることが自己観察だと思われておりますけれど
「実は私達は自己観察していると思っていても自己観察をしていない」のです。
通常の一般的な自己観察というのは
自己イメージ(脳からの記憶のこと)が自己イメージを見て、
私は自己観察をしていると錯覚しているに過ぎません。
実際は受動思考が受動思考を知覚しているに過ぎません。
本当の自己観察とは
実際に何時如何なる状態の時にでも自己私のことを鏡から
観察する「上位次元の私」による自己観察のことです。
鏡を見ている私(即ち鏡に映っている私)を直視するのです。
そして、その本当の自己観察ということを
神道の黒住宗忠師は「立ち向かう人の心は鏡なり己が姿を移してや見ん」と
具体的に教えて下さっております。
私達は合わせ鏡であり、その鏡を覆い隠している「自我の心」を鏡から
見なさいと教えておられます。
これはどういうことかというと?
正確な自己観察とは私が鏡そのものとなり、その鏡が自分を見るという
ことであります。
それは私の頭上から私のことを見ることでもあります。
頭上の高次元の私が「肉体に入って脳と結合している私」のことを
生かしておられる根源に向かって
「どうかこの私が幸せでありますように」と祈願することです。
それは
次元の異なる高次元の私が、この三・四次元の私を非難無く観る事
であります。
但し、これは自己を客観的に見るということでもありません。
何故なら客観的に見るということとは、
実際には客観とは主観の延長に過ぎませんので、それは主観なのであります。
何故かというと、それは自分を見ている私は見られている私であるからです。
黒住宗忠師が言うように「我の心」が鏡を覆っているのです。
「我の心」が鏡に映っている自分の姿を見て非難しているのです。
それは全く以て自己観察ではありません。
しかしながらこの「見るものは見られるものである」との現実を
見ることは「自己観察」への否定的接近といえます。
本当の自己観察・・それは別名「次元観察子」とも言われていて、
この三次元の自分をもう一つ上の高次の次元の私から高次思考で
見ることです。
次元の異なるもう一つ上の高次の次元の私が頭の上から私自己を
観照している観察のことです。
その自己観察とは客観的に自己を見ると言う事ではなくて(それは主観です)
高次元の私からこの三・四次元の私を見ているということなのです。
「次元の異なる高次元の私が、頭上からこの三次元の私を観察している」
ということであります。高次思考が受動思考を観察しています。
具体的には、その自己観察している私とは
・夫や妻が浮気していたことを「知ったときの私」のことを見ている次元が異なる私。
・部屋に大量の蛇やゴキブリがいきなり出現し「這い回っているのを見た私」の事を
見ている次元が異なる私。
・表彰式の壇上にいて、自分だけ名前が呼ばれなかった時や、「無視され軽蔑されプラ
イドがズタズタにされ傷ついたときの私」を静かに観察している次元が異なる私。
・「自尊心や自己関心でかき乱されている私」のことを暖かく見ている私。
・職場などで返事もされずに無視され、仲間外れされた時の私のことを観ている私の事。
・突然に癌が見つかり余命は幾ばくもないと宣告されたときの時の絶望し苦悩する私を
観ている私の事。
・夢の中で道に迷って家に帰れなくなってしまった私、夢の中で殺されそうになったり
している私や、夢の中で怪獣に襲われ追い詰められたりしている私を、これは夢である
と見て知覚している私。
・夢の中で集合時間に間に合わず困ってしまっている私、それらの私は、これは夢であると
分かっている私。
・夢を見ている私を更に上位次元から観照している私の事。
上記が受動思考や受動行為の私を高次思考によって観察している実際の事例ですが
実際にこの自己観察を行うことは非常に大変なワークであると思います。
「こんなに大変ならばとても自己観察など出来ないよ」と言っている私とは
自己観察している私ではなく、自己観察されまいとしている私であることでしょう。
「自己観察ならばいつもしているよ、皆で一緒に自己観察しようぜ・・」等と
言っている私とは、自己観察されまいと頑張っている私であることでしょう。
しかし
「私のこの実践している自己観察とは本当の自己観察ではない」と
否定的に自己観察を行うことも真の自己観察への接近でもあることで
ありましょう。
「私が自己観察されますように」と願っている私とは自己観察への接近である
ことでありましょう。
私が考えている自己観察とは
高次元の私から起こる事であり、三次元のこの私が
「したり」「しなかったり」することではありません。
自己観察とは聖なる恩寵によって起こることであり
その恩寵とは高次元の私からの恩寵なのであることでありましょう。