古来から三体整合について教えられているのですが
三体が整合するとは一体どういう意味なのでありましょうか?
三体とはそもそも何んなのでありましょうか?
私達人間は神の子である霊魂と三体の複合体、混合体なのであります。
自分自身に対しての態度や知覚は自己意識がどの次元にいるのか、ど
の三体が優先しているのかによって全く異なります。
従って、私が見えている次元世界も自分自身の意識内容も、意識がい
る次元によって異なります。どの三体が活性しているのかによって
知覚は異なっており、現在意識の内容も異なります。観察者自体も異
なってきます。より高次の私になればなるほど、自我の思考や感情や行為を
よりハッキリと自我の動きが観察できるようになることでありましょう。
私達の日常では常に自我が反応して思考し行動しており、それをもう一人
の自分であるサイコノエティック体の私が観察しています。
私達の内面では見られている自我とその自我を見ている私との葛藤状態が
続いています。
私達は霊魂と三体で構成されていても、三体の状態、即ちその中核となる
意識がいる次元によって、私達の知覚内容も異なり、意識の内容もそれぞ
れの三体の状態によって左右されています。
高次の魂の高次元の知覚では時間や空間を超え包括しており、世界や全ての
人々がその高次の私の内側にいるのです。
三体とは神の子である真の私・「聖なる鏡」を覆っている各次元の各身体の
私のことでありさらにその記憶の反応の私のことでもあります。
この久保栄治の実存レベルではそれを理解出来ませんが、高次の魂の知覚、即ち時
空を超えた私から見た場合は三体とは、それは魂の私である鏡に投影されている映像、
即ち現象三界世界、無明の私、この世とあの世の生死、平和や戦争の歴史など
が写し出されている映像のことでもありましょう。
私達は私自身とは神の分け御霊、神の子即ち鏡・魂であるのだけれども、私達は
その神の子の私の鏡に映し出されている思考や感情や行為や自我と同一化しており、
鏡に映し出されている映像である現象界即ち内部に写し出されている映像と
全く同一化していると言われております。
内部の状態を外部の出来事だと間違って知覚認識しているのだと魂の私は言います。
非難している相手とは自分自身なのに、相手を非難していると仰います。
そして魂の私にとっては私の中に世界が有るのに外部世界を変えようとしていると仰います。
・・これらの言葉は
この目が開いておらず頭脳の思考を自分だと錯覚している私にはそれは全く理解出来ません。
そして又、自分は生命であり息であるのに、自我の私は肉体と私を同一視してい
るので肉体の生と死を自分が死んで、そして又生まれてくると錯覚しているのだと。
魂の私から見た場合、
その真の私である鏡に写し出されている現象世界、自我、他者とは私の内部にあ
るのに、未熟で思考と同一化してしまっている私達は、世界を外部だと錯覚し、
相手を変えようとし世界を良くしようと努力しているのだと言われております。
世界を自分とは別の外部の対象として知覚している私とは、記憶の反応の私
であるのに、私神の子の自分は自分がそのように知覚しているのだと錯覚し
てしまったのですと。
色んな運命を持って写し出されている映像の私、思考や感情や行為をする私、
すなわち自我。成功や失敗、幸運や不運、戦争と平和、誕生や死亡を経験する
私。
それらは聖なる鏡に映る映像であって私自身である鏡ではないと言われてお
ります。
私達、即ち神の子の私である鏡を覆っている「未形成の諸体の私」は
「神が生きておられる肉体」や
「脳が受信した記憶から成り立つ人格の私」を自分だと錯覚して
しまっているのでありましょう。
至高の実在はこの「脳が受信した記憶から成り立つ人格の私」を
使って現象界という舞台で演じておられるのだと言われております。
ならばその私達である「脳が受信した記憶から成り立つ人格の私」即ち私は
神によって生かされていることに感謝して立派に生きねばと思います?!!。
簡単に言うと三体とは
「肉体・脳」と「人格」と「魂」と言っても良いのかも知れません。
それを又
三次元と四・五次元と六次元と言っても良いと思います。
そして
その三~五次元を「私という観念の現象界」という「自他に
分離知覚する三界」とし、「主体と客体の分離の無い実相界」
を六次元という分け方も出来ると思います。
その三体が整合した場合は、内なる魂の光がその三体を通じて輝き出
して世を照らすと言われております。
再形成された内なる魂の霊的身体「その時空を超えた魂の身体の七つの燈台」
から生命の泉が輝き、愛が溢れ出すと言われております。
しかしながら現実には
私達の三体は純化されておらず、意識がいる場所は記憶・自我の中なのです。
この三体とは
□至聖なる肉体(頭脳及びDNAやエネルギー体も含む)
(プログラムに従って自動的に意志し行為し知覚する私)
(物質三次元の私即ち条件づけられた脳を経由した「私という
観念」に使用されてしまっている身体・容れ物)
□思考感情体の私・人格の私、記憶の私、「私という観念」である自我の私。
自他は人類で同じ「私という観念」であるのに、肉体と
同一視して自分は個人だと錯覚している自己個人(実は
人類で同じ私という観念)。
(今生での私、肉体の形成と一緒に母胎時から自動的に成長
する幽体霊体のこと)
(家族、先祖や民族の記憶で形成されている記憶体)
(肉体が私で、自分の肉体で、自分が思考し、自分が行為し、
自分が知覚し、自分が自分の人生を生きていると錯覚して
いる「私という観念」の私。受動思考の私)
(エレメンタルや想念形態や過去世の私と混同されている今世の人格の私)
(死後の次元・四次元の私、冥界幽界でのアストラル・メンタル体の私)
以上は私ではない偽我であり、私を詐称する人類で同一の「私という観
念の記憶」です。
□魂の一部である現在のパーソナリティーの私、転生を続けている私。
(人格の観照者。次元観察子。思考、感情、行為、知覚、私を観照している私)
(霊魂の一部なのだが現在のところサイコノエティック体が充分には再形成され
ていない状態。高次元を知覚する目が閉じられている状態の私。
或る特定の人生の「記憶・人格の私」ではなく、各転生を持続し経験て輪廻して
いる私。魂から誕生した新しい神の子の私。)
(無心で、無欲で、求めず、願わず、全託し、起こること全てに感謝して受容し、
一切万物や全ての人と分離していない私)
(いまのところは一霊四魂であっても未熟で、その魂意識が顕現していない私)
(このサイコノエティック体の私の成長には自己(自我)観察、自
己想起というワーク内観が欠かせない)
上記が魂からの現在のパーソナリティーの私なのですが、肉体が
自分であり、自分が自由意志で思考し行為し人生を歩んでいると錯覚
している「記憶の私」「人格の私」に包まれているので、人格の私を
私だと錯覚しているのです。
これらの三体が魂と同じ波長で同調し三体が整合整列したとき、
即ち、その直列した三体の中空の柱の中に本来の至高なる一霊、
「I AM」である魂の光が三体に流入して三体を満たし三体
は魂に統合される。・・と言われております。
私達がこの物質界で身に纏っている三体。
これら上記の三体がそれぞれ浄化され成長し愛に輝くとき
内なる魂の愛が三体から放出されるといわれております。
その為のワークとは何でしょうか?
それは上記の「私を詐称している記憶」の人格の私、即ちこの私に対し、
自己否定して非難したり、押さえつけたり、逃避したり、自己を変え
ようと努力するのではなく
この私に対して、耳を傾け愛を捧げること。
この混合した私がこの混合し混濁している私を愛すること。
・・真正なる現在のパーソナリティー・サイコノエティック体である
私が、この人格の私と混濁している私が、
記憶である人格の私・自我に向かって愛を与え、感謝し、
慈しみ、黙ってそっと一緒に側にいて話しを聴いてあげるとき、
この私ではない記憶の私、人格の私は、根源の中に溶解していくと
教えられております。
即ち自我である私が自我人格の私に対して自己非難や自己否定なき
愛と感謝の自己観察を実行すること。
自己自我が自己自我に愛を与え、感謝する自己想起が、魂の私であ
る私のサイコノエティック体の再形成に寄与すると教えられております。
「サイコノエティック体の現在のパーソナリティー」である私、
魂の私である私は、大生命の一部なのです。私は記憶ではなく
命なのです。息なのです。そしてこの私・息がこの自我の私と
一緒に生活しています。・・しかし自我人格に包まれています。
この私は魂即ち生命・息です。私は息なのです。
そして息である私とは「私は私(真我)の息」の意です。
私達は肉体が呼吸していると誤解しています。しかし実際には真の私が
呼吸しているのです。それをこの人格の私自我は呼吸は肉体が起こ
しているのだ、と思っています。
呼吸は私・生命が心臓を動かし、肺を呼吸させているのです。
そして「超高次元の至聖のプログラム」によって心臓が動かなくなった
とき私・生命は自我・人格の私と共に肉体から離れるのです。
呼吸しているのは最初の呼吸前の母胎にいるアストラル体、メンタル体の
私すなわち、DNAでプログラムされ教育を受けて成長する人格の私では
ありません。
最初の呼吸で母胎に入った私霊魂は生命・息なのです。
息とは私(真我)の息なのであります。
私達は死んだら呼吸していないと思っていますが、それは違います。
肉体の死後、幽界や霊界で呼吸していないのは自我エレメンタル・人格です。
死んでも私は呼吸しています。私は命であり息であり、死なないからです。
呼吸していないのは息が去った肉体であり、肉体の死後肉体から離れた
人格の私、この自我記憶の私の方です。
呼吸している「魂の私」が肉体から去ったので肉体は呼吸していないのです。
肉体と同一視している自我は死後「あれ!生きている」と混乱するのです。
そして自分が死んでいないで生き続けているので、死後の幽界でも物質界と
同じような世界を作り出すのです。・・その記憶である人格は呼吸してい
ません、記憶だからです。
しかし
肉体が死んでも肉体から去った魂の私は息しているのです。
息をしていないエレメンタルとなった人格の私は幽界や霊界で生き続けますが。
私・息であり魂で有り生命であり霊は高次の次元に戻るのです。
だからこそ
本当のブラザーのUFOは呼吸しているのです。
呼吸していないUFOは本当のブラザーではないのです。
私は私(真我)の息なのです。
・・・と未熟ながらも信じています。