私はたましいの表面意識。

2024/05/11(土)
私はたましいの表面意識。

〈今朝、思考したこと⇒最後を参照〉

私は魂なのです。
肉体ではありません。
私は意識の座・鏡であって。その鏡に去来する思考や感情や行為
は私がしているのではありません。

私は魂の表面意識と潜在意識そのものです。
いわゆる神聖なる鏡なのであって
この意識の座に入れ替わり立ち替わり出現する「複数の自我の私
=偽我」なのではありません

思考し、行為し、欲望し、悩み、苦しんでいるのは私なのでは
ありません。
・・それは神の演技なのではないでしょうか。

それは意識の座、鏡に現れている「自我の私=偽我」なのでも
あります。
その自我の私とは複数の私・人格から構成されております。
過去世の私・人格だけではなく人類の集合意識や憑依している人格
もあります。

この魂という意識・鏡の座に入れ替わり立ち替わり現れる「自我の私=
偽我」とは一人ではなく多数であります。
その私ではない自我の私とは多数の人格なのであります。

その多数であり、特定の人格であり、思想や意見を持ち希望し、
計画し、熱願し、期待する「自我の私=偽我」が表面意識を占
領し私を覆い隠しており、私を名乗り、そして思考し行為しております。

表面意識という意識の座に入れ替わり交代して出没して考え、お話しし
たり、見て聞いて、行為し、生活しているのは私ではない多くの人格
自我であります。

それを私達は自分自身だと思い込んでしまっているのであります。
それらは
A:肉体の脳とDNAの状態の私+憑依しているものの思考、感情、欲望
  (物質界次元肉体の私、才能や障害のある私)
B:肉体と一緒に成長している思考体感情体の思考、感情、欲望の私
  今回の転生で形成された人格の私=幽界次元の私、死後も継続する私。
  しかし来世には転生できずにCの私に数珠のように繋がれ肉体の
  民族的集合意識を持っている私。
C:肉体に魂と一緒に入った4次元の未形成のサイコノエティック体
  の未熟な思考、感情など(脳や自我と完全に一体化している私)
  各転生を継続している私
D:魂の次元の高次思考の私(しかしBやCの次元の私にはこの私を
  知覚できない~。

たましいの私Dである鏡・表面意識に、
多数の人格の私が、それぞれの私が立ち現れてきて尤もらしい意見を述べ
将来の事の希望を熱心に述べてくるので、私達はそれを複数だと見破れない
のです。
私達・霊魂の私はその個性を持った多数の人格の私達を自分自身だと
思い違いし私自身だと錯覚してしまっているのであります。

ここでこの今生の今現在の私の人格(現在のパーソナリティー)の私
については少なくとも二つの異なる私があります。
とても似ているのだがソースが異なっている私
に関して、以下の如くであると言われております。

A:今回の転生で肉体の成長と共に形成されるDNAの遺伝的な人格の私。
  先祖からの民族としての特性や家系の因縁・記憶から成り立ち
  民族の先祖のDNAから継承し構成されている肉体に属するサ
  イコノエティック体の私。シュタイナーの説くアストラル体
  メンタル体のこと。(ここではそれをサイコノエティック体) 
  これは母胎と一緒に形成されていくサイコノエティック体〈幽体霊体〉
  の私で、民族や氏族など肉体の系譜の遺伝的な性質を受け継いでいる
  人格の私のこと。

B:輪廻転生している魂を構成している霊的諸体のうち未形成なサイコ
  ノエティック体の私のこと。(表面意識の私・人格だが脳と結合している)
  魂からの現在のパーソナリティー(人格の私)であり。肉体に入り
  大生命からの胎児がする最初の呼吸と同時に魂と一緒に肉体に入り、
  脳と結合した魂の一部としての現在のパーソナリティー。
  この魂からの人格現在のパーソナリティーは表面意識と潜在意識
  から成り立っている。自我は潜在意識そのものではなくて潜在意識
  に棲み着いている人格群)
  魂は肉体に入らず肉体の最上部に留まっており、魂と繋がって
  いて輪廻を続けている未形成のサイコノエティック体としての人格
  の私を愛を持って観照している。
  成長過程である霊的諸体を持ち、内奥には更なる高次元の霊的諸体を
  持っている現在のパーソナリティー・人格の私。
  神の子と繋がっている未熟な私。

C:上記の二つの異なる人格の私(サイコノエティック体)から
  それぞれ形成された想念形態・エレメンタル、記憶としての私。


これらが私達人類の平均的な現在のパーソナリティーの私個人を構成して
いると思われます。

このA~Cの人格の私が現在意識に去来してそれぞれが私と名乗って
おりますが、それらの私は正確に言えば魂自身の私ではありません。
しかしながら現在のパーソナリティーには二種類あり、片方は肉体由来
の人格であり、もう一つは魂由来の人格の私(表面意識)です。

これは精神分裂症や多重人格という病気のことを言っているのではなく
人間では宇宙人でも誰もが同じであり一般的な私達自身のことを言ってい
るのであります。次元の異なる私が同時存在しているのです。

通常の私達人類の誰しもが同じ構造であり、同じ状態であって、
これは脳に於ける疾患である多重人格という病気のことではありません。

この魂の表面意識において瞬時に交代して出現するこの異なった人格の私。

この他数の人格が意識の座に於いて入れ替わるということは、疾患とい
脳に於ける現象ではなくて、誰もが同じ構造なのだが、このシステム
を知覚するにはもう一つ上のたましいの次元の超知覚の開花が必要であり、
それには魂の意識が目覚めないとそれを知覚することが困難なのである
と言われております。

この構造は地球上の誰もが避けられない、基本構造なのであります。
私達が肉体に入り、条件付けられている脳と繋がった以上は、
地球上の誰もが避けられない、根源からのマーヤなのでありましょう。

多重人格は精神疾患であり脳と言う物質次元の病状であるのだが
こちらの正常の人格と言われている知性や理性や思考の方の人格は
もう一つ上の4次元の魂から見れば、私ではない人格なので、それ
らを区別しなければなりません。
即ち
魂の意識の座に現れている人格の私は二つあります。
A:肉体のDNAや肉体由来の思考感情体をベースとした人格の私。
B:未形成だが魂からの由来のサイコノエティック体をベースにした
  人格の私。
の二つの異なる現在のパーソナリティーがあるということ。

しかしその意識の座である魂自体の超意識・超知覚・高次元の知覚を持つ
魂の私であるならば自他は分離しておらず、私はあなた、私は世界なのです。

この私である鏡という意識の座に現れる多数の人格「自我の私=偽我」は
脳に於ける病理現象ではないために、私達たましいはそれに気が付かず
その多数の人格の私を自分自身だと錯覚してしまっているのでありまし
ょう。で、この多数の人格とは肉体の系譜に属する血縁の人格又、魂のその
時の転生時代の人格(記憶体)やそれらの人格の私が作り出した想念形態
・エレメンタルでもあることでありましょう。

そして魂からの私はそれに同一化し翻弄されてしまっているのでありましょう。

この多数の人格が入れ替わり立ち替わり出現し私自身を名乗り、私達を占有して
私を名乗っています。

そして入れ替わり立ち替わり出現していることにたましいの諸体の私達
人格は気が付きません。自分が欲望し考えていると思い込むのです。

私達がそれらの多数の人格と一体化して、鏡が曇ってしまっている
現状では、
鏡である意識からの私は、高次の知覚や、高次の意識を知ることが無く、
これらの自我・記憶の私の思考や感情や行為しか知ることができない
でおります。

私達はこの記憶・多数の人格に同一化し占領され自由ではないため、
この記憶の私の思考や感情や欲望や知覚や行為しか知らず、
また死後もこの物質次元の記憶や死後の次元の4次元しか知らず
自分自身であるこの魂の次元の意識の事が一切分からないでいる
現状なのでありましょう。

そして、この魂の次元が分からないと言っているこの私とは
とりもなおさず、私に覆い被さっている記憶という多数の
人格・自我のうちの一人なのであって私ではない事でありま
しょう。

至高なる実在は、この私に覆い被さっている記憶という多数の
人格・自我を使ってこの物質界やあの世で、思考し、行為し
私として演技されているのでありましょうか?

脳が知覚している物質世界は神聖なる至高の実在のマーヤ
なのでありましょう。

至高なる実在・大生命が呼吸し、心臓を動かして生きておられます。

至高なる実在・大生命が脳を使って「私と言う演技」をしておられ
思考し行為し生きておられます。

私達がいきているのではなくて神が生きて演技しておられるのです。

そして、そもそもわたしとは存在していないと言われているのに
私達は一体何を願い、何を望み、何に至ろうというのでありましょうか。
最高次元から見た場合
魂の私は思考しておらず行為もしていません。全ては起こっています。
「すべてはそのままで完全完璧」
「すべてはそのまま、今此処あるがまま」
「何も足さず何も引かず何も変らない」
「全てはそのままで愛そのもの、全ては美しい」
「全てはそのままでありがたい」
とおしえておられます。


⇒最後までお読み下さった皆様へ

この私の文章は誰が書いたのでしょうか?
それは勿論、久保栄治です。
では久保栄治とは誰でしょうか?
それは人格です!!
人格とは記憶の反応です。
即ち自我です。

ですので、これを書いているのは記憶で構成されている人格であって
自我なのです。
この記憶で構成されている個人の私とは,
それが即ちエゴ自我であり
この記事は自我という記憶が書いているのです。
それは丁度AIと同じです。

従ってこの文章は自分の体験ではなくてエゴが読んだ記憶
知識の情報によって書いているのです!
従って
その内容は実体験に基かない想像であり「情報」「嘘」なのです。

AIと同じように悟った賢者の言葉を記憶している私自我は
神に近づこう、超意識を獲得しようとして覚醒を求め、悟りを求
めており、その為に実践し、色々と体験もします。
しかしその体験の中には体験している私、すなわち自我がそこにいるのです。
その体験を体験してる私がいる限りは
その体験は自我が生み出した体験に過ぎません。

私自我は覚醒していないので、覚醒を求めています。
悟っていないので悟りを求め、悟ろうとして大変な努力をしています。
けれども内なる魂は
既に覚醒しているので覚醒しようとしたり、悟ろうとしたりはしない
ことでしょう。

真我を求め、神と一体になろうとしたり、神に近づこうとしている私は
魂ではなく自我です!

自我が自我を拡大しようとしているのです。
拡大していないので拡大しようとするのです
悟っていないから悟ろうとするのです。
魂で有り拡大している私ならば拡大しようとしたり悟ろうとはしません。
それは丁度、満腹の人は食事をしようとしないと同じです。

修行して神と一体になろうとしている私・・
それは神のようになろうと努力する自我なのです!
真我探求をし、それに至る方法を求め実践しているのは、
真我ではない私それは即ち自我・エゴ・思考です。

そして、この事に気がつき
この自分自身から解放され、自我から自由になる為の色々な方法を実践して
思考(記憶・自我)から自由になるために模索し努力をしているのは
自我であることを知り
この私から離れることです。

努力している私から離れることです。
私が思考していると錯覚している私から離れることです。
私が行為していると錯覚している私から離れることです。
私が生きていると錯覚している私から離れることです。

自我からの解脱、解放を求め実践し努力している私とは自我です。

自我だからこそ自我からの解脱解放を求め実践しているのです。
私の本体の魂で有るなら悟りは求めないはずです。
既に悟っているからです。