「見るものは見られるものである」・・クリシュナムルティー
このクリシュナムルティーの言葉は一体どういう意味なのでしょうか?
それは一言で言うと「わたしの中に世界が有り、宇宙が有る」ということ。
一般常識的な理解ではこの言葉は何を語っているのか全く分かりません。
脳による知覚認識しか知ることのない私達にとっては
脳を創造した叡智次元側からのクリシュナムルティーのこの言葉は
私達には理解のしようがありません。全くのチンプンカンプンです。
私達が見ているこの世界とは条件付けられている脳が見ている世界であり、
脳の知覚範囲だけに限定されて知覚認識している脳が見ている世界。
脳によってコントロールされている脳の世界であり、
「条件付けられていない脳」が見ている世界ではありませんし、
次元が異なる霊的諸体が見ている世界でもありませんし、
まして魂が見ている世界でもありません。
正しくは、魂は見るのではなくて「在る」からでしょう。
この世界は脳の記憶が見ている世界なのです。
霊的諸体が見ている世界なのです。
見ているものは脳の記憶です。
霊的諸体が見ている世界は「見るものは見られるものである」では勿論ありません。
まして
脳を創造し心臓を動かしている側の高次の大生命の知覚認識する世界で
はないのです。
このクリシュナムルティーの「見るものは見られるものである」とは。
人類が全く想像だにできない高次の意識による知覚認識の言葉なのです。
これは彼岸という「”自他の分離という思考”を超越した次元」からの言葉なのです。
それゆえに人類の脳や分離するマインドによる思考では理解が出来ないのです。
脳や思考やマインドとは常に見るものと見られるものの分離であるからです。
私が神を見、私が世界を見、私が宇宙を見ているという見る者と見られるもの
が分離している無明のマインドでは「見るものは見られるものである」は理解
することが出来ないのです。
私達は本来は、一霊四魂であっても、肉体の中に入り脳と結合し
霊的諸体と複合し多層しているので意識は混濁しています。
何処から何処までが私達の意識で、何が「記憶の反応という受動
思考」であるのか、何が「霊的諸体」の分離マインドなのかが、
自分では識別できません。
私達の意識は複合し重層し混濁しています。
私はここで自分なりに自己を
★脳からの受動思考の反応である意識を「自我自己」、
★霊的諸体からの能動思考である意識を「私自己」、
★魂からの高次思考である意識を「私-私」
と言った具合に識別しております。
そして
日常生活ではこの意識の表面に入れ替わり、立ち替わり「自我自己」「私自己」
が意識されていますので何処から何処までは「受動思考」であり、「能動思考」
なのかがわかりません。「私-私」意識と言う鏡はこの「私-私」意識を覆い隠して
いる「自我自己」「私自己」が払われなければ顕れることがありません。
こういう状況ですので、
私達は肉体に入り脳と結合し、脳と一体化してしまい
「彼岸という高次の目からのクリシュナムルティ
ーの言葉など理解出来るはずもありません。」といっている脳からの受動思考
の「自己自我」に洗脳されてしまっているのです。
私達は自我と一体化しているのです。
ここは大事なところです。受動思考や能動思考は一見すると正しいこと
を言っているように思えますが違うのです!
確かに私達は脳と結合し、見る、聞く、感じる、思う、行う、考える、
欲する、記憶するを自分と同一視していますが、それらはわたしが行っ
ているのでしょうか?
それともわたしに起こっているのでしょうか?
それらは私達が行っているのではなくて私を詐称する「自我自己」という
受動思考がです。私達がその受動思考と一体化し流された結果自分が
行為したと錯覚しているのです。しかしながら行為しているのは受動思
考であっても、その受動思考の自己自我と一体化した「私自己」に責任
があるのです。
私達は現在は未熟で眠った様な状態であって脳の記憶「自己自我」と一体化してい
ても、私達は霊魂「私-私」であり、それらの記憶による条件反応とわたしを同
一視してはなりません。
覚者によればこの「私-私」は「自己自我」や「私自己」が脱落したとき
始めから実在していた「私-私」が燦然と輝くであろう、と教えておられます。
この魂の私を覆い隠している「自己自我」「私自己」が消え去ったとき
この「私-私」という主体と客体の分離の無い「在る」が顕現すると言うのです。
しかしながら私達は如何に眠ってしまっていても神の子であり、生命なのです。
行為し思考しているのは私ではないのです。
「わたしにはそう思えないし、信じられない」と言っているのは私達
を覆い尽くしている「自我自己」=脳の記憶なのです。
私達は脳の言っていることを自分が話していると錯覚してしまって
います。私達は霊的諸体が話していることを自分が話していると思ってます。
しかし、私達は決して脳の記憶ではないので、その脳の記憶の受動思考に
一体化してはならないのです。
即ちこの現在の「自我自己」や「私自己」の思考や行為や意見と同一化
してはならないのです。
この能動思考の「私自己」という私が受動思考である「自我自己」を
観察することで今まであったが認識されていなかった「私-私」
たましいの私が明らかになっていくと教えられております。
観察者、見る者は分離している私という観念であって、自他の分
離、対象観察のない観照者ではないからです。
クリシュナムルティーの言葉や真実を理解出来ないのは脳の受動思考
であって脳に入った私達「私自己」や「私-私」ではないのです。
以下は私による未熟な解釈です。
「見るものは見られるものである」の「見る者」とは主体のことですし、
「見られるもの」とは対象・客体のことであります。
ここでクリシュナムルティーは主体は客体であるといっています。
「見るものは見られるものである」と言っています。
「私-私」には見る者も見られるものも無いと言っています。
「対象が私」「対象は主体である」「相手は私」と言っています。
ここで言うこの観察者であり見る者とは?
それは、神の根源的神聖なるマーヤであり私という観念であることでしょう。
そのマインドという神聖なるマーヤを主体と客体の分離なく観照
している霊魂が「空が私」「世界は私である」と言っているのです。
「主体は客体である」ということは、主体である私と対象である客体は、
一つであるということ。事実は私と貴方、私と世界は分離していない。
事実は私と世界、私と空間は分離していないとKはいっています。
私とは世界であると言っているのです。
観照者であるわたし(空なる私)の中に世界(私という観念・根本無明)
はあり、わたし(空)の中に宇宙(見る者・観察者)が有るといっています。
それなのに私達はわたしと脳を一体化してしまってわたしはこの肉体であり
この「宇宙は私が観察する対象だ」、即ち「見るものは見られるものである
」のではないと、
わたしは世界と分離した世界を観察している主体だと錯覚してしまっている
のだと言うのです。
真の主体のわたしが全く脳の知覚と一体化してしまったというのです。
「私-私」が「自己自我」に覆われていることに「私自己」が気が付いて
いないのです。と
「世界が私である」「宇宙が私である」「空間が私」であるということ
であります。
そして、ここで「見るものは見られるものである」と言っているのは
誰なのでしょうか?
「見るものは見られるものである」と言うことを見ている目とは、
「見るものは見られるものである」ことが見えています。が、私達は
私という観念に覆われ、霊的諸体の目や頭脳の目しか起動していないので
その目は開眼していないので「見るものは見られるものである」とは
見えていないのです。しかし、クリシュナムルティーはその目で観ています。
その高次の目は「見る者」を観照している観照者の目なのです。霊眼の目
や超知覚の目ではありません。その目には見ている分離している私がいな
いのでしょう。
それは「見るものでも見られるものでもない」第三の目なのであります。
「I AM」の目です。
彼はその目「私-私」から人類に対して話しかけています。
又、その目は「世界は私」であるので。内部の主体であるわたしと思考、
即ち心に現れる欲望や恐怖や羨望や不安や快楽や思いや考えは同じ
私である。と見ています。
自己や他者や思考を対象として見ているわたし主体と
それらの見られている他者や思考や欲望や分離思考は分離して
いないと言っているのです。自我とわたしは分離していないと
言っているのです。自我を見ているのが自我であり、たましいの
わたしの目には自我もわたしで分離していないのですと。
対象を見ている目はたましいの目・観照者ではなく記憶の目、
自我自己であるといっているのです。
(黒住宗忠師のいう「立ち向かう人の心は鏡なり」と同じです)
そしてそれを認識しているのは、主体と客体に分離していない
真の主体(たましいの目・観照者)だというのです。
(黒住宗忠師のいう「我の心は人の心ではない」と同じです)
自分の自我を見ているのは自我なのです。
相手に自我を見ているのも自我なのです。
世界を対象として見ている私は自我なのです。
自分と相手を異なると知覚しているのは自我なのです。
その自我が自分を対象として知覚して自他を判断し、非難し、改善しよう
と努力しているのですと。自分を自我と真我に分けているのは自我です。
対象として世界を見、自分を見、相手を見ているその目とは自我なのですと。
そしてそれらはいずれも主体である私ではありませんと。
何故ならばたましいの目であるならば相手は私の中に在り、世界はわたしの中に
あるからであります。わたしも相手も神なのです。
ラーマクリシュナやラマナ・マハリシはさらに
「その自我が現れる源泉が真我なのです」と教えておられます。
・・ここまで読んでこられた方は頭が混乱していると思います・・・
・・そのくらい世間の社会常識とはかけ離れているからです・・
そしてその「見るものは見られるものである」ということを見ているもの
が真の主体・わたしであるというのです。
対象を見ている私や、その私によって見られている私は「私という観念」
「自己自我」であり、本当の主体ではないというのです。
私達は私達の条件付けられている脳の知覚などによって
この現象物質世界は主体と客体が分離していると認識させられています。
そして
その結果、見ている私と見られているものは別々だと認識されていますが
それは脳内物質のゆえであり
本当は「見るものは見られるものである」であるといっているのでしょう。
見る者と見られるものは分離していない、同じものであると。
万物と私は実際には分離しておらず一つであると。
世界は私であるといっているのです。
それは、人間や世界を対象として分離して見ている私も、見られている私
も、未知なる真の私ではないというのです。
真の主体とは世界を対象として見ている私ではないというのです。
世界は対象ではなくて私の中にあり世界が私であるといっているのです。
「私という主体が欲望や思考や自我を見て知覚している」と錯覚して
いますれど、
その主体とは欲望や思考であって、本当の主体ではないというのです。
真の主体は「見るものは見られるものである」と観ている観照者だと
いうのです。
その主体と客体に分裂して見ている私は思考の記憶であり真の主体ではない
というのです。
自我や欲望や暴力を見ている私とは自我や欲望や暴力であり私ではない
というのです。
私達人類は神と私は分離し、私と貴方とは異なっていると知覚し、実感し、
主体と客体は別々であり、輪廻転生しております・・それが原因結果の
行為している個人が存在している現象世界であります。クリシュナムルティー
がいる次元はその現象世界ではないのです。
私達は対象を知覚認識しているその私を自分自身だと信じていて決して疑ったこ
とはありませんが、世界を対象として見ている私は真の主体ではないというのです。
この対象が私とは別々にあるという二元性が「カルマ」=「私が行為している」
の基盤であり、因果応報、因縁を成立させています。
「私は行為していない、行為は起こっている」「わたしはいない」の高次元界には
カルマが存在しないのです。カルマという法輪は輪廻転生している私がいて、
そして相手がいて、わたしが行為しているという幻想の二元性があることによって
成り立っているので、カルマがこの世とあの世の仕組みを成り立たせています。
即ち世界や他者とは、私と別に存在していて、自分・私が思考や行為を
しているということによってその原因を創り、結果を招くというこの二元性が
現象世界を成り立たせています。
これは先ほど紹介したように自己が他者とは別にあり、わたしは世界とは別だ
と知覚される世界、即ち現象世界であり、この自他の分離が二元性を成り立た
せている根本原理であります。神聖なる神のマーヤでありましょう。
しかしこのクリシュナムルティーの「見るものは見られるものである」
は、この現象世界という自他の分離、行為をしている私を超えている
実相世界から見た菩薩の目の世界のことを話しているのです。
そして、そこには自他の分離が無く、従って思考や行為をしている個人
はなく、思考や行為はわたしの中に只々起こっているのだというのです。
クリシュナムルティーの「見るものは見られるものである」とは、これ
は神々の世界や輪廻転生している私達の知覚する次元界の認識のことで
はありません。私達は自分が他者とは異なって存在していて、自分が
行為していると錯覚しているカルマの世界に居るのです。
この自他の分離がなく、主体と客体の分離の無い実相世界には
行為する人も、思考する人もいないのです・・・これは全く私達には想像
すら出来ない真実(非二元)なのです。このクリシュナムルティーの
「見るものは見られるものである」の目は現象世界を成立させている
実相のことなのです。
さて話しは戻りますが、
自我を見ているのは自我であり、私ではありませんと。
私や貴方の中に自我を見ているのは自我であり、私ではありませんと。
その主体と客体に分裂している自我という偽の私を偽の自我だと
観ているのが真の私、観照者だというのです。
ので、クリシュナムルティーは実は客体として自分とは別に認識されて
いる対象を知覚している主体とは主体ではないと看破しているわけです。
〈どっぷりと二元性に浸かっている私には、これは理解のしようもあ
りませんが。〉
この「分離して対象を知覚する自我自己の認識形式」は虚偽の知覚だ
といっているわけです。
クリシュナムルティーは三界の現象界を成立させている二元分離の認識
形式を超越している高次次元から本当の実相の目の認識を話しているのです。
が、私達は、肉体に入り脳と結合しているので、受動思考と一体化し
この主体と客体の分離の世界の認識形式しか知らないので、
クリシュナムルティーのいう言葉が全く理解出来ないのであります。
わたしとあなたが分離しているように見えているのは、脳が条件付けら
れている結果であって、
それは脳の知覚、自我自己の知覚であり、私の知覚ではありません。
脳の構造は全人類で全く同じであり、自我自己の知覚も全人類は同じであり、
その結果、全人類は全員がそれぞれ私と貴方は分離していると知覚している
のです、
全人類の全員が世界と私、私と貴方は異なると錯覚しているわけです。
本当は見ている私の中に世界はあり、私の中に宇宙はあるといっています。
ここで言葉を変えて言うならばクリシュナムルティーは高次元の知覚から
「万物、全て一切は同じ素粒子で構成され、全ては神であり、神以外に
何も存在していない。神は愛であり、愛以外に何も存在していない」
「主体は客体である。」「見るものは見られるものである」「わたしの中
に世界はある」という実相を述べておられるのではないでしょうか。
何故なら「見るものは見られるものである」と見ている目とは「神の目」
であり、観照者の見地だからです。
その目には見る私(偽主体)も見られる私(対象、客体)もないからです。
ですから「見るものは見られるものである」と看破しているのは
「たましいの目」即ち第三の「観照者の目」ということであります。
「見るものは見られるものである」とき主体が客体である時
そこには愛があり、空があり、一なる者が姿を顕すのだと言って
います。
その観照者の目からみた世界は宗教的な表現で言えば神以外に何も存在し
ていない。全ては「空」。私の中に万物はあり、万物の中に私は在る。
全ては素粒子、全ては完璧、即ち「全ては愛」だということなのであり
ましょう。
哲学的な表現では、
見る者即ち主体とは、見られるもの即ち対象であり、それは私という観念
にしか過ぎない。その私とは真の主体ではない。ということでありましょう。
記憶は内部と外部を分離分割し、私と宇宙を分離分割し、私と他者とを分離
分割し、自国と他国を分割し、地球人と宇宙人を分離しているが、それらは
同じ私、即ち「私という観念である」といっているのです・・
だからこそその「私という観念である」である私が「私という観念である」
である私を愛し、許し、感謝しなければならないのだと思います。
私という観念は神の神聖なるマーヤだからであります。
その私という観念が世界であり、世界を世界とみている、世界の創造者なの
でありましょうか。
内部に於いては頭脳が私と恐怖や苦悩や不安や欲望を対象として認識して
いますが、「見るものは見られるものである」との視点からすれば、恐怖
を見ている私が恐怖なのであり、「この私とは恐怖である」とのこの高次
元の知覚認識の中には愛しかないと言っているのであります。
これは平たい言葉で言えば「見るものは見られるものである」と見ている
目は「愛」という状態なのでありましょうか。
そして「愛」とは神の意識、創造主の意識なのでありましょうか。
それは、この現象次元から見れば「空」のことでもあり「素粒子」
のことでもありましょう。
ですので愛以外に何も存在していない、ともいっているのであります。
またクリシュナムルティーは「観察する者は観察されるもの
である」とも言っています。
これは私達は宇宙や素粒子を観察対象として観察していますが、「見
るもの即ち観察者は見られるものである」の高次元の知覚認識では
観察者も観察される者も脳が創り出している現象であり、同じもの
であり、私と万物との分離は虚偽なのでありましょう。
「世界や宇宙とわたしの分離」は脳が見せている仮想現実。
「わたしの中に貴方がいて、わたしの中に世界が有るのに
私と貴方は別々でわたしと世界は異なる」と感じているのは
受動思考の私、受動欲望の私、記憶の私は仮想現実。似非の私。
自分と他者の分離とは脳が見せているのは脳の虚偽。
事実はこの「二元分離の世界は幻想」であるのでありましょうか。
私という観念が創りだした見るものと見られるものの分離は
神聖なるマーヤなのだと。
映画「マトリックス」が言うようなことを言っているのでありましょう。
・・これらはいずれも頭脳の理解ではまったく接近出来ませんが。
従ってこの「見るものは見られるものである」の言葉が指し示し
ているのは仏教で言えば「色即是空」と見ている意識であ
るということでありましょう。
この主客一体を見ている意識の状態を、こちらの
現象次元の言葉で話せば
「私は世界であり、世界は私の中に在る」
「私はあなた、あなたは私」
「色即是空、空即是色」「一切皆空」「自我即真我」
「一切すべての中に私は在り、私の中に全てが在る」
「無数の星や太陽が見えますが、それらは全ては私の中にあります」
「私の人生に於けるあらゆる人々の言動の責任は私にあります」
「私達が見ているものは全て一切が記憶である私という観念なのです、天使や
悪魔や、敵も味方も、成功も失敗も、大都市や田舎も、人工や自然も、
生や死も、欲望や希望も、健康や病気も、肉体も霊体も、神々や宇宙人も、
ビルも、善も悪も、ゴキブリや虫や可愛いペットも、草や木も土や空気も
一切の対象である全てが私であり、この私という観念の中に全てが在るの
です」
ということであると思います。
このようにクリシュナムルティーは「見るものは見られるものである」
と人類に教えておられるのはないかと推測しています・・・
以上が3歳児であるわたしの未熟なクリシュナムルティー解釈であります。