人生で一番大切なこと、それは私を愛すること

2024/04/10(水)
人生で一番大切なこと、それは私を愛すること

私達は何のためにこの地球に生まれてきたのでしょうか?
それは自分を愛するためでありましょう!!

では、その「愛」とは、どういう意味なのでありましょうか?

それは愛することによって愛する対象と一つになり、自分が失われる
ことでありましょう。
自分を愛することによって愛の中で自他の分離が消滅し、
全てはひとつであることが顕れることが生きている目的なのでありましょう。

それは別の言葉で言えば自我の終焉(本願成就)でもありましょう。

自分を愛すると言うことは愛の中で自他に分離した自分が消滅するこ
でもあります。自分が消滅することで本来の私が顕現するのでありましょう。


では愛する対象である私とは、いったい何でありましょうか?

それは、内部と外部に起こっている事、知覚されている対象すべてであります、
またそれは、それらを対象として知覚認識している主体のことでもありましょう。

これは通常で使われる私という言葉の意味するところの私ではないのですが、
ここでは私という言葉でもって「一切万物すべてが私」と言う意味で使っています。

椅子や机や家や土地も一切万物は私という自己意識を持っていると教えられている
からです。

ですので、愛する対象である私とは
私が知覚する対象、起こっている事のすべてが私であることでありましょう。

久保栄治はそれを信じております。
但し、これは一般常識や地球人の社会通念上でいう「私」という概念では
全くありませんが・・。

ここでいう私とは、目の前の人とは本当はこの私だと言うことです。
肉体にたとえれば、何百億の細胞で一人の人体が成り立っており、
その一つ一つの細胞が私達個人個人だと言うことであります。
どの細胞が欠けても人体は成立しないのです。全ての百億の細胞が揃って
いるので一人の人体が機能しているからです。
右手が左手を非難し攻撃したり消そうとすることは人体では決してしませ
ん、そんなことをしたら肉体が死んでしまいます。
が、それと同じ愚かなことを人類はしています。

この観点は、自他の分離を知覚し、私と貴方は異なっているという
左脳を中心とした思考やその記憶ではなくて、より高次の霊魂から
の知覚であり、死後も継続している低次霊的諸体による分離認識では
ないことでありましょう。

自他の分離が無い超越次元からの高次の意識による知覚認識では
黒住宗忠師が言うように、「立ち向かう人とは私である」のことですし、
私が知覚認識する対象である「あなた」とはこの私自身のことでしょう。

私を苦しめ、悩ませる相手や敵とは私でありこの自分自身なのでありましょう。
その私を愛すること、その私に感謝して、愛と感謝しかないとき、魂の私が
喜びとともに輝き出すのではないでしょうか。

そのように「見るものは見られるものである」の観点から今度は内部を見るとき、
私が見ている恐怖や不安や苦悩や自我とは、全ては私が愛すべき私自身なので
ありましょう。

私が見ているものは私の姿なのでありましょう。私が認識している対象
は私なのです。

知覚される恐ろしい出来事や幸せな出来事、許せない出来事も失敗や成功も、
そして望まないこともすべてが私自身なのでありましょう。

波長が合っているので共鳴しており、同じ波動だから集まって認識され
ているのであり、「類は友を呼び」、自分が同じ波長のものを呼び寄せ
ているのでありましょう。

「見るものは見られるものである」と教えられているように
地球人類が持つ条件付けられた頭脳や霊的諸体の見る分離知覚の目
からではなく、霊魂や内奥の真我から見た場合、実相が看破され、
主体は客体なのでありましょう。
非難する相手とは、私の姿なのでありましょう。

また、私の中のエゴ自尊心や競争心、プライドや支配欲とは、それを私が
観察している対象とみていますが、実際にはそれらの自分の自我や相手
の自我とはそれを見ている私自身の姿なのでありましょう。
「鏡に映る自分の姿とは、見ている私の姿」なのです。
私が観察している心の中の自我や恐怖や不安や暴力性は観察している私自身の姿です。
自我だから自我を知覚することが出来ているのでありましょう。
自我を観察しているのは自我なのです。

知覚される対象と知覚する主体とは、同じくこの私自身なのですから

知覚されている対象である起こっている出来事や体験はすべては私が招き、
私が呼び寄せた私のすがたなのでありましょう。
その私の姿に感謝せよ!といわれています。

キリストが「汝の敵を愛せよ」と言われているように、その高次元
の超知覚の目から見た場合は、汝の敵とはとりもなおさず、見ている
私自身なのでありましょう。

知覚するものは知覚されるものだからであります。
鏡に映っている私は、鏡を見ている私なのです。

起こっている事、身の回りで起こっている出来事の全ては
自分自身の姿なのでありましょう。

同じ波長なので、波動が同じなのでそれを知覚認識出来るのです。

Kによって「知覚するものは知覚されるものである」と教えられて
いるとおりでありましょう。

ですから
私を愛することとは究極の意味に於いて
知覚される一切の対象を愛することでもあり
愛と感謝の中に溶けいることでありましょう。
それは同時にその対象を知覚している主体をも愛することなので
あります。
何故なら、その主体とは対象であって、真の主体ではありません
真の主体ならば対象とはならないからです。
真の主体には見る者もなく見られるものもない分離なき神・光・愛なのでしょう。
愛とはその霊魂の意識をも超えたスピリット・一霊の意識なのでしょう。

ですので
私達がこの世に生まれてきた理由と目的とは
全て一切である自分を愛することであり、それは即ち不安や恐怖や憎悪を、
そして記憶を、エゴを愛することだろうと思います。
見ることが秩序を齎すと教えられておられます。
感謝し愛することが秩序を齎すと教えておられます。

そしてそれが「愛することで空に帰還する」ということでありましょう。


では、この複合している私にその愛するという事が可能なのでしょうか?

キリストは「愛せよさらば愛が与えられん」と仰いました。
愛はお金や物のように持っているから与えるものではなく
愛とは、与えることによって与えられるのです。
それは愛することによって、愛は知られ、愛が与えられるということです。

私達は思考によって、自分には愛が無いので愛することが出来ないと錯覚
していますが、自分の奥には神が、そして神である愛があることを知らない
からなのであります。
愛し感謝する事で愛と感謝が与えられます。

自我があることが出来るのは真我、神が基底に存在しているからです。


愛は愛することによって与えられ、愛が自らの姿を徐々に顕わにするので
ありましょう。「神は愛なり」と教えられております。


しかしこれでは余りにも「私」に関しての説明が漠然としすぎています。
私本体は霊であり、別の表現では時空を超えている超意識とか「空」
と言われておりますが、魂としての身体の私とは以下の重層する私に
よって構成されていると教えられております。

①神聖なる神の宮としての完璧なる「肉体としての私」「エーテル複体の私」
 アンナマヤコーシャ、プラーナマヤコーシャ。
   ※肉体自体の純粋なる生命意識

   -②以下は他界したあとも物質次元ではない次元で継続している。
②思考感情である「アストラル体・メンタル体としての私」、マノマーヤコーシャ。
   ※条件づけられた脳が受信したエゴである思考の記憶の反応の意識
    現在の地球人の意識、欲望と自我の意識。
③地球の集合的無意識の「記憶としての私」、「無数のエレメンタルの私」、
 「想念形態の私」。
   ※脳から起こっている行為や思考や意志の記憶。
   ※霊魂が肉体や思考を自分だと錯覚した記憶の集合体意識。
    この記憶とは恐怖を根幹とする集合意識。 
④個別的特性、即ち、独自の才能を有し知覚認識主体である「個人人格としての私」
 「ヴィジュアナマヤコーシャ」「輪廻転生の度毎に霊魂が身に纏う個人の私」
   ※分離した意識でありながら継続したカルマ、特別な才能を携え三界に生きている意識。
    輪廻転生する毎に身に纏う「錯覚である人格」の個別分離意識。
   -②~④は再誕生するさいに⑤に収納される

⑤輪廻転生している本体である、魂の記憶である永遠の原子「コーザル体」
 アーナンダマヤコーシャ。
   ※自他に分離していると錯覚する思考に覆われている神の子の意識。
   ※転生した全ての経験を記憶し、アカシックレコードにアクセスする意識。

   -シャンカラは①~⑤までの私を本当の私を包んでいる鞘と教えています-
    
⑥霊魂本体である七つのチャクラの身体、高次元超時空の霊的諸体
    ※一切万物との同調、アチューメントする超感覚の非分離の全体意識 
⑦真の私、神の子の私、時間と空間を超越した普遍的霊、超意識。
    ※シャンカラやラマナ・マハリシ、ラーマクリシュナ、レベルの普遍意識
     「汝はそれなり」と看破する、非分離、自他一体、不二一元の超意識 
     この意識は、私達の脳の意識では全く近づけないし、理解や推測は全く
     できない。