「汝の敵を愛せよ」・・イエスキリスト


キリストは私達人類に向かって汝の敵を愛せよと教えておられます

★では汝の敵とは誰でしょうか?
・・・敵とは誰でしょうか?
   クリシュナムルティーは「見るものは見られるものである」といいます。
   それは「私が見ている相手とは自分自身なのだ」ということ。
   だからその相手とは私の事。
   私の目の前の敵とは私なのだ。
・・・敵、それはこの私自身のことだ。この自他を分離して内と外を見ている私が
   自我自身。私自身が私の敵であり、それを見ているのが私・自我なのではないでしょうか?
・・・私・自我は自分自身を相手だと知覚して、自分のことを敵として知覚しているのだ。   


★では私・自我とは何でしょうか?
・・・再び言いますが、それはこの私、この私達自身のことであることでしょう。
・・・自我、それは神の演技なのだとラーマクリシュナ達は教えられております。
・・・そういうことで、自我である私達には、私達である自我をどうすることも出来ません。
   それは、自我とは神の演技だからなのではないでしょうか。
・・・自我は常に絶えることなく思考し続けています。
   思考とは常に未来を心配し、現在をそのまま受け容れることを決してしません。
   現象世界は神の映像であることを思考は理解出来ません。思考こそが神の映像だからです。
   自我は「未来は起っていることではなく、自分の自由意志で自分が決定できること」だと
   錯覚しているので、
        自分は生かされている神のロボットなのに自分の自由意志で生きていると思っています。
・・・自我とは考えている記憶であり、過去を拘泥し、未来を思い煩い、不安であり、競争であり、
   嫉妬であり、恐怖であり、暴力であり、苦しみであり自己関心等々です。
   それは丁度AIが自己意識を持ってしまったのと似ています。


★では、自我である私達は自分自身である自我にどう対処すれば良いのでしょうか?
・・・自分自身である私が自分即ち自我をそのままで受け容れることでありましょう。
   キリストが言うように自分自我が自分自我を愛し感謝する事ではないでしょうか。
・・・自我である自分をそのまま受け容れること。自分の側にそっと一緒にいてあげること。
   自分を非難したり、自分を分割し、自分を判断したりしている自分に耳を傾けそのまま全てを
   暖かく受け、恐怖している自分を抱きしめることでありましょう。
・・・自己を記憶の自己と魂の自己とに分割して見て認識しているのは記憶の自己です。
   自己を低次と高次に分割し、葛藤し相克しているのは記憶の自己です。 
   神の子である魂の自己の目には、低次の自己は存在しておらず、自他の分割も分離も無く
   全ては完全完璧で一つなのでありましょう。


★では愛すると言うことはどういうことでしょうか?
 そもそも、エゴには愛があるのでしょうか?
・・・キリストは言います「与えよさらば与えられん」と
   愛は愛することで与えられるのであり、愛はお金やモノのように持っているから
   与えると言うものではありません。愛とは経済や商取引ではないのです。
   愛は自分を与えることです。
   愛は愛することで与えられるのです。
・・・ミルダッドは言います
   「愛とは愛する者が、愛する相手に永遠に吸収されて、二者が一体となること」だと。
   愛とは対象に自分を捧げて自分が無になることでありましょう。
   愛とは自らの存在を相手に、自分を捧げることで自他は分離していないと言うことを
   身を以て証明する行為のことでありましょう。



結論として

■私達は自分自身に感謝し、このあるがままの自分自身をそのまま受け容れて
自分自身に愛を捧げることです。
このあるがままの私とは神の演技だからです!!
そして自分自身とは私の目の前にいる自我であり、自分である相手でもあり敵でもあります。
その自分とは如何に恐怖に塗れ、嫉妬心や競争心に汚れて暴力的であっても
「汝の敵を愛せよ」のキリストの教えに従い
自分に愛を捧げ、自分自我に感謝を捧げることでありましょう。

最後にクリシュナムルティーは非常に高い真我の見地から言います。
「成ろうとすることは在ることを否定することだ」
私達は至ろう、成ろうとしているので、自分(I AM)から遠ざかってしまっているのです。
「成るのではなくて既に在るのだ」と。
成ろうとして求めているのはI AMではありません。

このクリシュナムルティーの教えは、私達に対してではなくて
神々に対しての言葉なのかもしれません。