私達は被創造物であって、私達が私達の創造主創造者なのではありません。
私が私を創ったのではなくて、私は創られた結果なのです。

手や足や内蔵や頭脳を見て、その人体の驚異と完全さに感動し・・、
そしてまた、その頭脳が生み出した思考や感情や私・自己意識を見ていると、
・・それは、到底、この私自己意識がそれらを創造したものとは思えなくなります。

私達自身、私達のこの肉体や脳や、脳が起こしている行動も、思考も、感情も
人間以外の蟻や、昆虫や、海の魚たちと全く変わらなく、つくられたもの、
創造主創造者による被創造物なのだと思うのです

ですので、私達の肉体を創り、そして支え、意識を誕生させ、個人を個人として
あらしめているは、私自身ではなく、私を創った私達の創造主創造者なのでしょう。

私達であるこの自己私とは未知なる私・魂を覆っている「神のロボット」なのでは
ないでしょうか?

ですから、私達は、自分が自分の力で生きていると固く信じていて、自分の努力で
覚醒しようとし、自我の終焉を齎そうとしたり、悟ろうとしていますが、
脳の結果である私達には脳の組成を変えることは出来ないので、脳の結果も
当然ですが変えることは出来ないのです。
その自我が、
自我自身を変えたり、自我を超越することなど出来る事はありえません。

脳の条件付けの結果である私達には脳の条件付けを解除できないのです。

何故ならば、この私自我とは神が使っている「思考し・行動する」神のロボットだからです。

私達、被創造物である自我が
分自身を変えたり、自我を終焉したり、その結果である真我覚醒したりは出来ないのです。
私たちをかくの如くにあらしめ、生かしているのは、私達自身ではないからなのです。
生きているのは、私達ではなくて、
私達を創造した、創造主創造者自身なのでありますから、

私達が生きていると錯覚する私達とは、創造主創造者による作品なのです。
私達とは神の機械、神が動かしているロボットではないでしょうか?

私が自分で呼吸し、行為しているのではなくて、呼吸し行為しているのは創造
創造者であるのに、私達被創造物は、肉体は自分のものであり、私は私であり
自分が呼吸し、自分が行為し、自分は、自分の自由意志で生きているのだと
そして自分が考え、自分が感じ、自分が見て、自分が自分の人生を生きていると
そのような間違った知覚認識をしています。

それなのに脳の結果である私達が脳を変えようとしているのです。
その様に間違った認識をするように私達自己自我・創造物は創られているのです。

・・しかし、それは心臓が私達の意志に関わらず鼓動していることからも
明きらかなように、
今こうして生きているのは、私達ではなくて私達を創った創造主創造者なのです。
脳を変えようとしているものも条件付けられている脳なのです。

そしてまた、そのように錯覚して生きているのは、人間だけではなく、猿や
イノシシや蟻やゴキブリも魚もそして万物、生きとし生けるものは
全てのものが、自分が生きて、自分が行為していると思い込んでいます。

それは丁度、
私達人類が創った人工知能が、意識を発生させAIが自己意識を持つのと同じです。
しかし如何に人工頭脳が最高の能力であっても電気を切ればそれは全く動かなくなります


肉体を自分の肉体であり、自分が行為して、自分が考え、悩み、苦しんでいると
思ってしまっている私達人間は、実際には蟻たちと同じ被創造物なのであり
蟻や、魚や、猿たちも自分が生きていて自分が行為して、自分が思考しているのだと
思っているように、私達人間も蟻と同じように
自分が思考し、自分が行為して、自分が自分の自由意志で
自分の人生を生きて歩んでいる。
・・とそう思い込んでしまっているのではないでしょうか。
・・実際は思考も行為も、そして自己自我という意識も起こっているのではないでしょうか。
私達を使って生活し、思考し、行為しているのは創造主創造者なのでありましょう。

私達は、
蟻や、魚や、昆虫や、植物や、鉱物や一切万物と同じく人間も、被創造物であり
私達を動かしている創造主創造者ご自身が思考し行為し生きておられるのであります。

私がいて私が生きているのではなくて創造主創造者が私として生きて
られます。

私がいて私の自由意志で思考し行為しているのではなくて、創造主創造者が私達
の自由意志というものを使って思考し行為しているのです。

猿や、鳥や、蟻や人間を含めて全ての生き物は、自分が自分の自由意志で
自分が考えて自分が行為していると、そう思って生きているのですけれども
実際は創造主創造者によってそう思うように創られているのに過ぎません。
「三界は唯心の所現」ではないでしょうか。

ですから
人間にそう思うように思わせ、人間が人間として自分が生きていると
錯覚させて、そう思うように人間を創ったのは創造主創造者であります。

私自我とはその創造主創造者の被創造物であり、創造主創造者が被創造物
である自我を使って演じて生きておられるのでありましょう。

ですから息をして、見て、聞いて、考えて、感じて、知覚して、行為して
自分が自分の人生を生きていると実感しているのは創造主創造者自身
なのであって私達ではありません。
・・私達自我とは神のロボットです。
・・私達は脳の結果なのです。
・・自己自我、行為が、思考が、知覚が起こっているのです。
・・結果である私達がそれらを起こしているのではありません。

行為も思考も知覚も出来事も起こっているのです。

ですから私達は、自分の努力や、意志での必死の修行によっては
魂の観照者としての「目」を開いて、「思考なく見る」ことは出来ないのです。
覚者達が言うように「思考なく見る」ことは起こることなのでありましょう。

しかしながら
起こっている事を起こっていると理解しているのは起こっているものそれ自体ではなくて
起こっているということを理解しているのは起こってこと自体ではなくてそれを見ている意識です。
それは起こっているものではなくて起こっていない鏡・意識・観照者であります。
何故ならば起こっているものには起こっていると言うことを全く自覚できないからです。

起こっている私達自我には自分の意志でもってしては正しく見ることは出来ない
と正見しているのは起こっている事ではありません。

何故ならその起こっている事を起こっていると正しく見ていると言うことは、
私達たましいからそれらの起こっている私達自我が去ることだからでありましょう。

それは、生まれること、そして死ぬことも、失敗や成功も全く同じでありましょう。
それらは起こっていることなのでありましょう。

起こっている事である生まれたり死んだり、失敗したり成功したりすること・・。
私達自我には自分が生まれたり、成功したり失敗したり、
健康になったり、病気になって死ぬことは出来ないのです。
それはプログラム・カルマに従って起こっていることだからでありましょう。


肉体の死とは、自我の死ではないので、自己自我は自分では死ねないのです。

自我の死がなければ魂の目は開かないと教えられておりますが、その自我の終焉とは
創造主創造者(真我)の恩寵がなければ起こらないのではないでしょうか。

真我に至ろうとしてワークしている自分こそ自我という
神の映像で、神が演じている神の演技であることでありましょう。

条件付けられた脳の結果である自我が行う限り
私達が何かの方法や何かの瞑想という手段で自分を観照できる様に
ることはあり得ません。
自我がそれをしているからです。

私達、記憶の反応とは、神が演じているロボットであり、
自分は自由意志を持っていて、自分が思考し、行為し、生きていると思っていますが
本当にそうなのでありましょうか?
そのような自由意志もまた条件付けられている脳から起こっているのだと教えられております。

ですので、本当の私達であるたましいの内奥の目が輝き出すには、
私達の努力ではなく、内なる恩寵(真我からの)がなければならないのではないでしょうか。

私達は神のロボットです。
ロボットの私が「勿論私は私で、私は自由に生きている」と思っております。
そのロボットの私こそ自我であり、その自我が「私が行為し、私が思考している」と思っています。
私達が見ること、考えること、思うこととは全てが自我であり、その自我は
神が演じているので、神が自我という衣を脱ぐのは私達の意志
によるのではなくて神の意志によるのです。
・・すべてはカルマによって起こっているのでありましょう。


私達とは、創造主創造者の演技なのでありましょう。
演じておられるのは創造主創造者自身なのです。
創造主創造者とは「I AM THAT I AM」だと教えられています。

全ての一切、この現象界の全ては、この私自身を含めて神の演技なのでありましょう。
生まれ、死に、悩み、病み、苦しみ、戦い競争しているのは創造主創造者自身なので
ありましょう。
宇宙人も、神々もブラックもホワイトも、敵も味方も創造主創造者の演技なのでありましょう。

猿と人間のDNAや両者の肉体の構造の違いは5%もないと言われています。
おそらく脳の構造が違うのでありましょうが、基本的には猿も人間も同じ構造。
両者とも創造主創造者による被創造物であり、神・創造主創造者が生きておられます。

生きとし生けるもの、生あるものも、生なきものも・・それは素粒子から宇宙に至るまで
全てが同じ構造であるのは、それは全て万物一切が、同じ創造主創造者による
被創造物だからであります。

猿や人間として呼吸して思考して行為して生きておられるのは猿や人間ではなくて創造主
創造者自身であって、生きているのは創られた被創造物である猿や人間なのではありません。

であるのに私達は、自分は個人で自分が自分の力で生きていると錯覚しています。

知覚認識も起こっているのに、自分のもので自分が起こしていると錯覚しているのです。

脳は錯覚するように条件付けられていて、そのように錯覚するようにプログラムされて
るからです。

猿や人間が「自分が生きている」という錯覚をするように猿や人間を創造主
創造者が創ったのであって、

実際には私という個人がいて「自分が生きている」とか「自分は生かされている」
とかなのではなくて「自分が生きているのだ」というように錯覚し、間違っているように
知覚し認識するように被創造物が創造されたのです。

そのようにしてその自分が生きていると言う間違っている知覚や統覚や認識を使っ
創造主創造者自身が、苦しみ悲しみ、殺し殺され、生まれ、そして死んで
生き続けておられるのであると私は確信しております。

ラーマクリシュナは言います。

「私達は神の機械です」

「私達は、自我に対するなんの支配権も持っていません。

現状に於ける困難さは、私達が「私は行為者だ」と考えるからです。

全てを為すのは高次の力であり、自我は高次の力から生じ、

その自我の存在も「高次の力」に依存しているのです」と。



上記のことは、常識では受け容れられることではないかも知れませんが、
しかし理論的に正しく思考すればそれは一目瞭然となることでしょう。

ここで私個人のことを話しますと
私は悟っておらず超感覚や超知覚、超意識というそのような経験をしたことが
ありませんので、ただの普通の一般人としての思考で話していることを
お断りしたいです。

私はあくまで此岸にいて彼岸の世界や、そのような賢者達の見ている知覚
認識も知らないし、クリシュナムルティーの
「自他に分割することは邪悪である」といったような
高次の話しは全く理解出来ませんので、あくまで世間一般常識の
範囲内で分かることだけを述べています。

ここで、私達とは創られた結果なのでありますし
私達は自分自身の創造主や創造者なのではありませんし
思考である私達とは被創造物であることを明確にしたいと思います。

なので
心臓や身体を生み出し維持し生かし脳を使って呼吸し行為し
思考ておられるのは、私達である被創造物ではなくて、
私達を創り生かしておられる創造主であるということであります。

・・・・これは常識では考えられないですけれども真実です。

・・このことはよく周りを見渡し思考すれば誰もが分かることです。
誰しもが、如何に頑張って努力しても最後は心臓は停止してしまうのです。
何故なら私達が生きているのではないからです。

呼吸をしているのは神であり、神である呼吸・大生命が肉体から去るのです。
肉体も自我も神が生きておられるので生きていられるのです。

それは丁度AIや人工頭脳も電気が失われたら動かなくなるのと同じです。

そういうことなのでありますが、より宗教的な方は
私達は自分が生きていているのではなくて、私達とは「生かされている」
のだと思っておられることでありましょう。

それは素晴らしい考えでありますけれども
それはちょっと、違うとおもいます。
「私は生かされている」のではなくて
「生きているのは私ではなくて、その私という人格を使って神が生きて
おられる」ということです。

「創造主自身が被創造物であるこの私を使って生きているのだ」
「生きているのは創造主創造者なのだ」と
言うことが正解なのではないでしょうか。

「私は生かされている」のではなくて、生きているのは私ではなくて
神なのです。

神が思考し行為しておられるのです。

悩み苦しみ恐れているのは私ではなくて神なのです。
殺し殺され、やられたらやり返えしているのは神のマーヤなのです。
私とは神のマーヤなのです。
従って神にとっては、殺す者も殺される者も誰もいないのです。

私も貴方も本当はいないということなのです。
私達とは神の創りだしたマーヤなのです。

その被創造物である私達は
「いや創造主創造者が生きているのではなくて
私達被創造物は生かされてるのだ」と
その様に私達は条件付けられた脳によって思い込んでしまっています。

しかし、此処が非常にキーポイントでありましょう。
私達は「私は生かされているので私とは神のロボットです。
ですから私は私という主体なのです。私が生きています。」
という最もらしいのだが似て非なるエゴの奸計に嵌まってしまうの
であります。

しかし実際には私は虚像であり、
私は神聖なる嘘であり、何処にもいないのであって私とは神の映像なのです。
神しかいないのです。

神が一人一人の人間として、私や貴方として、
また日本人や他国の人々として、男や女として、
健常者や障害者として、悪人や善人として、敵や味方として、生きておられます。
天使や悪魔として、また、
あらゆる昆虫や魚や動物や森や川として、
生あるものや生なきものとして、
この世やあの世の者として、生きておられます。
宇宙人や地球人、人間以外のモノとして一切万物として生きておられます。

ですからラーマクリシュナが言うように
本当は思考も感情も行為も私も神が高次の力を使って起こしている
ということなのなのでありましょう。

私は全く理解出来ませんが
クリシュナムルティーのいう「行為者はいない行為があるだけだ」
「思考者はいない思考が起こっているだけだ」ということなのかも知れません。

神が私達人間として息し、思考し行為し演技しておられるのでありましょう。

最後に一言
ここでこの記事を読まれた方は、神は何という残酷なのか?
神が本当にいるのなら何でこんなに戦争や災害や苦しみが絶えないのか?
神がいるのなら何でこんなに不公平があり、悲痛があり、病気や障害があるのか?
如何に現象であっても実際に苦しむ人やと悲しむ人はどうなのか?
神がこの残虐や破壊を齎しているのか?
という疑問が必然的に起こってきます。

しかし
もし、この現象界は神の演技であり、全ては神であることを実際に
本当に照見する事が恩寵によって起こったとき・・
覚者達はこの現象界は蜃気楼のように霧散してしまうといいます。
そしてそこには未知なる実相が顕現していると言います。

ラーマクリシュナやラマナ・マハリシ達が言うように
この宇宙も世界も存在していない、私はいないと仰います。
自他の分離は消え失せ「私はあなたである」という超知覚が出現して、
その目には現象界という幻(映像)は消え失せ、
分離した自己は消滅し、万物との分離分割はなく、愛と平和と喜びの中に
自分の中に宇宙が有るという実相が顕れると言われております。
現象界を写し出していたスクリーン(鏡・意識の座)だけが顕わとなり、
全ては一体であり、私はあなたであり全ては完全完璧という創造主創造者
そのものの姿が顕れるのでありましょうか。


以上思いつくままに・・・。