求道者の私達が非常に陥りやすい過ちについて注意喚起したいです。

それは覚者の言う「私達には自由意志がない」ということに関してです。
「私達は行為していない」ということについてです。
これはラマナ・マハリシ達覚者が口を揃えて言っています。

それは最新の脳科学でも証明されておりますし、覚者もそう言うのです
ですから自由意志も行為も起こっているのだと思われます。

ここで自己欺瞞に嵌まらない為に、それをそう言えるのは自由意志がな
いことを本当に知っている方々のみだということです。

その様な実相を観ることが可能な第四の目が開いている方々が、その目
が見ている実相をのべているのです。

実際には自由意志がないことを知っているのは彼岸に渡った極々少数の覚者
の方々ですから、私達は覚者達とは違った世界にいて、その覚者達の目は
ありません。
ですから
即ち私達の目が閉じられている以上は私達は自他分離の錯覚世界にいると言うこと
です。ですから私達は目が開いていないので盲目であることをまず始めに認
識しなければなりません。

何を私が言っているのかというと、私達は自分の目は開いていないのに
ラマナ・マハリシやクリシュナムルティー達、覚者の語った言葉を読んで
暗記して全く誤解してしまっているということです。
テレビを見て子供がスーパーマンになったつもりでビルの屋上から飛び降
りてしまうことより危険な誤解です。

かれら覚者達は悟った真我の目から見たことをそのまま話しているのです。
「すべは完全完璧」「行為者はいない行為があるだけだ」「すべは神である」
「見るものは見られるものである」などなどこの世の目ではない第四の目で
彼岸に渡った方々が此岸にいる私達に向かって話しても、迷いの此岸世界に
私達がいる以上は私達にはその彼岸の世界のことは知るよしはありません。
そもそも見る目がないからです。

覚者達は覚醒した真我の目で見ていることを、そのまま本などで私達に語
りかけておられます。が、
それはあくまで悟って彼岸に渡った方々の超意識による知覚であって
それを聴いた私達は全く実相を観る目が開いていないのにも拘わらず、即ち
私たちは目が開いておらず泥沼にいるのに、彼らと同じように自分には
見ることができていると思い込んでしまい、悪いカルマにさらに悪い
カルマを積み重ねて、ますます覚醒から遠のいてしまっていることです。

この盲目状態である私達が覚者のように「全てよし」「全ては完全である」
などの実相を観ることのできる目が開かれるためには、その為には良きカルマを
重ねて努力して、霊的諸体を再形成し、八正道を実践して心を綺麗にしなけれ
ばならないのです。

私達はこのような現状であるので、最大限努力し、良い行為、良き行い、良き
自由意志を使って自らの心をいつも綺麗に保たなければならないのです。

そしてその結果、良き行為が、行為から解放されるのであり、その偽りの自由
意志を行使することで「自由意志があるという錯覚」から解放されるのです。

私達が自他分離という錯覚にいる限りは私達には行為しないことはできません。
私達が錯覚にいる限りは、私が自由意志で思い考え、私が行為しているという
「私」いるからです・・そしてその「私」がいなくならない限りは、私に自由
意志があるというマーヤからの解放はあり得ません。

此処が最重要点なのです

悟っていない以上は私たちは偽りの自由意志を用いて正しく行為しなければ
ならないのです。
正しく行為しない限りは正しくない行為は起こり続けるからです。
正しい思考をしない限りは正しくない思考が起こり続けるからです。
悟っていない以上は私達はカルマの中にいるからです。

私達は覚醒していないので覚者から「行為から離れなさい」「行為をしている
と錯覚してはいけない」等と言われますが・・それは悟り直前の既に覚醒体験の
ある方々に対してであり、平均的な私達人類にではありません。


私達人類は行為していないのだと言うことを理解出来る目を開かせるためには、
私達は正しい行為をして、正しく思い、自分をコントロールして、葛藤しながら
も正しいカルマを重ねて、正しいカルマによる正しい目の覚醒を求めるしか方法
がないのです。

それは丁度海に来ていて、すぐそばで溺れかかっている人を目の前にして
「何も起きていない、行為は起きているのだ」といってその人を助けずに
溺死させてしまい、隣人に手を差し伸べなかった・・という大きな最悪の
カルマをつくりだしてしまっているのと同じです。
そして「何も起こっていない」と言うことを見る第四の目の発現から
更に遠ざかっていくのです。

ハッキリと言いますが
私達は覚醒していない以上は相手が自分とは別の存在だと知覚しています。
そうである以上は
私達は自他分離の闇の中にいるのであり、その錯覚から自由になるためには
偽りの自由意志と偽りの選択、そして八正道を実践して相手が自分自身
であるということを身を以て証明する必要が有るのです。

覚者は当然相手は自分であるのですから、相手のために、たとえ相手が
自分を殺そうとして襲ってきとしても、自らの身を自発的に渡し相手を
愛し相手に殺されることでしょう。
覚者は相手とは自分であり、行為は起こっていないのですから覚者のそ
の行為は当然でありましょう。

しかしながら、私達が対象を見ている限り、「対象は自分ではない」とそ
のように錯覚している限りは、敵は敵に見えることでしょうし、殺戮は
殺戮にみえることでしょうし、殺される人と殺す人は同じ人だとは見え
ていない事でありましょう。
それなのに、そこで「何も起こっていない」「全ては完全完璧だ」「全て
は良し」「誰も行為していない」と言う実相が見えていない以上、
私達は暗闇の中にいて、自他分離の、殺戮と戦争のエゴの中にいるのです。
ですからその自由のない錯覚から脱出するために、私達はその錯覚を使って
即ち自由意志・・これは覚者達によって否定されている自由意志ですが。
その自由意志を使って正しい行い、正しく思わなくてはならないのです。
それが八正道です。

ではその正しい行い正しい選択とはなんでしょうか?
正しい思いとは何でありましょうか?

それは勿論一切万物すべてを愛する愛であり、生かされていることへの
感謝なのです。

結論として私達が自他分離の錯覚世界にいる以上、私達はそこから脱出
して自由になるために
その自由のために、それを知覚している自分自らに愛と感謝を捧げなければ
ならないということであります。

ここでいう自分とはこの自我であり、自我を写している相手でもあることで
あります。相手とは自分を映している鏡なのですから。

正しい目が覚醒しない限りは、錯覚である自由意志を最大限に行使して、
正しい行い、そして正しい思いが必要なのです。
八正道がその道なのです。

ラマナ・マハリシは言います。

「人は世界を見ているとき真我を見ていません。

だから真我を見なさい。

そして創造はなかったのだと悟りなさい」