神が私として生きて演技しておられるということであります。
この人類の一人一人として生きておられる大生命・至高の実在・神が
脳を使い記憶として思考し行為しているのではないでしょうか?
即ち神が私や貴方として、思い、行い、見聞きし、行為し、悩み、希望し、
恐れ、嫉妬し、努力し、競争し、願い、祈り、熟考し、探求し毎日を
一生懸命に真剣に生活し人生を歩んで生きておられるのではないでし
ょうか。
もっと正確に言えば私達は自分が生きて行為していると錯覚してい
ますが・・・
それは、丁度PCゲームの中の画面上の人物が自分が生きて選択し行為
していると錯覚しているのと同じですが実際は神がPCゲームをしてい
るのではないでしょうか。
この考えは常識では考えられませんし、日常生活や社会生活ではこのよ
うな観点は全く受け容れられないことは良く分かっております。
しかしながら
現在の最新の脳科学の結論や知見では、それら、私達の常識では全く
考えられないような同じ結論が導き出されているのです。
それは
脳を生み出しDNAを使って、心臓を動かしている大生命即ち神・
至高の実在が脳の記憶を通じて私や貴方の自己自我として思考し、
行為し、生活して演じ生きておられるのであって、その脳の記憶
の私が思考し、行為し、生活し生きているのではないということ
です。あくまで神・大生命が記憶即ち人格の私を使ってこの世界
をこのように演じておられるのであります。
脳の記憶の私は至高の叡智・神が脳を使い思考し、行為し、生活して
いるのに、自分が思考し選択し行為しているのだと錯覚しているので
あって、この自分が生きて選択し行為していると思い込んでいるです。
私とは神が演じている神のロボット・記憶です。ということなのです。
それは、全く常識では受け入れられることはありませんが、恐れ苦しみ
悲しみ悩んで戦い、全てを行為しているのは神なのだということです。
神が恐れ、苦しみ、悲しみ、戦い、行為し、私・自己・自我として演じ
ておられ、それを脳の記憶・私という人格が自分がしていると錯覚し
ているということなのです。
・・この世界は神が演じている演劇だという結論です。
・・これは物凄く複雑で社会には全く受け容れられない考えです。
人類の現在の知覚や常識では否定されることでありましょう。
しかし考えてみても下さい
私達人類の知覚では地球は丸く、自転し、太陽の周りを回っているとは
感じられませんが、実際はその知覚に反して地球は丸く、自転し、公転
しているのです。
ですから
真実はこの脳の知覚ではなくて、科学的な結論に従って導き出されます。
この私もそして貴方も神の演技であり、神の自動機械・ロボット・映
像即ちPCのゲームの登場人物と同じようにプログラムされた脳のネ
ットワークから生じている記憶の反応・人格の私なのであるというこ
となのであります。
ではそのことを見てそのように理解している私とは誰でしょうか?
それは、そのことをハッキリと見て理解しているのは神の子の私
だということなのではないでしょうか。
ここで注意しなければならないのは「私は神の子である」と思っ
ているのは本当に神の子の私なのか?それともその「私は魂で
神の子」だと思っている私とは脳が受信した記憶の反応の私なのか
と言うことです。もし神の子であるならラーマクリシュナが言う
ように「肉体が実際に有るという感覚」はそこにはないはずです。
したがって当然のことながらこのいま「私は神の子」であると思
っているのは脳のネットワークから生み出された記憶に過ぎない
のではないでしょうか?
そういうことなので今のところはこの神の子の私は脳のネットワークか
ら生じている記憶の私、思考の私(神の演技の私)と一体化して
しまっているので、神の子の霊的諸体が形成されていない限りはこの
私とは記憶の反応・プログラムの反応に過ぎません。
このたましいの私が持つ霊的諸体の超知覚やその能力や可能性は
脳の記憶の反応である思考のこの私にとっては未知なる私の特性
でもあります。
また霊的諸体が形成されていない神の子の私は多重性や多様性、時
空を超えた自由な意識を使うことが出来ない神の赤児だともいわれて
おります。
けれども「記憶の反応である思考や行為とは私ではない」と知り
その私を詐称する記憶の錯覚を虚偽だとハッキリと見ている私とは
神の子なのかもしれません。
それは
その神の演技である「自分・私が思考し行為していると錯覚して
いる私や貴方」という脳の記憶の反応の私ではなく、「神が思考し行
為していることを見ている私」、神の演技を演技であると見てい
る観照者・たましいの私であることであることでありましょう。
即ち大生命のサムシンググレートの子供・神の子・たましいの私
であることでありましょう。
この神の演技を神の演技だと見ているのは神の子なのであり
ましょう。これを別名で「観照者の私」とも言います。
この神の子の私が、予め準備されプログラムされている母胎
の胎児と最初の呼吸で結合し、そしてまた最後の呼吸でまた
この肉体から記憶とともに離れて行くといわれております。
では以上のそれらの所見を基にして私はどのように生きるべ
きなのでありましょうか?
私達には選択の自由はなく、それを受け入れることしか道はな
いと思われます。・・そしてそれが観照者への道へと繋がって
いくのではないでしょうか?
私が思うに
起こることは
偶然に起こることがあるのでしょうか?
それは親子や夫婦の相克や葛藤に見られるように、また浮気や
事業の失敗や成功、突然の不慮の事故や癌などの罹患発病など
肉体の持つプログラム・DNAに従って正確に、決まったその
時期にその様にしてそれは現れてくるのではないでしょうか?
そしてさらにその起こってくる出来事に対する私達の懸命な努
力や改善の為のワークや修行さえもプログラムされているので
はないでしょうか?
ラーマクリシュナはこの私達にはその起こることやこの私達自身に
対する支配権は持っていないと言います。私達が肉体に結合したと
きその肉体が持っているプログラムにしたがってあらゆる出来事や
それに対する行為や内面の反応や努力が起こるでしょう。このプロ
グラムに対しての反発そして改善への努力はその起こってくるプロ
グラム(DNA)によって決定されている内部と外部の出来事事に
は影響を及ぼすことは出来ないと言われているのです。
破局を迎えるであろう二人が最高の恋愛感情で結婚し、幼いときの
大天才が歳をとってその才能を失い、あるものは成功し失敗し、健康
を謳歌している者が病気になり、聡明だった人が突然惚け老人となり、
愛情溢れる夫婦に浮気と破局そして殺意が襲ってくるのです。
これらは魂が結合する肉体にプログラムされている事柄であり、肉体と
結合した以上は避けることが出来ない決定されている事柄ですと。
またラマナ・マハリシは
私達には自由はなく、この起こっている出来事(事故・災害・結婚・
浮気・裏切り、成功と失敗、健康と病気、才能と障害などなど)
出来事、起こることの一切の行為や内面の精神状態はプログラムに
従って起こるべき場所と起こるべき時に正確に起こっており、私達
にはそれに対して全く影響をあたえることは出来ず、起っている事
への自由はないと言います。唯一の自由はその起こっている出来事や
この自己自我に対しての「観照者であること」であると言っています。
起こることは良いことも悪いことも含めて、あらゆる内部や外部の全てが、
良いこと悪いことを含めて、あらゆることは完全完璧にまさにその瞬間に
起こるべくして起こっているのではないのかと思われます。
神の許可無しにこの現象世界で何かが起こることがありえるので
しょうか?
内部のそして外部の出来事に対応し自我によって繰り返し起こってい
るそれら思考、行為や欲望や苦痛や快楽のあらゆる一切に関して神の
目は見逃すことはないと思うのです。
ここから導き出される結論は
内部と外部の一切に、良いことも、悪いことも起こっている一切に対
して有り難く感謝して受取り、そしてそれに愛を捧げることなのでは
ないでしょうか。
一切万物に、内部と外部に起こっている一切の事に、そして又、その
起こっている事に反応している自我に対して愛を捧げることこそが
私達のあるべき姿なのではないか・・と信じるのです。