侮辱され、軽蔑され、無視されて今まで自覚されず潜んでいた
自我が暴れ出す。
運転していて後ろからぴったりと幅寄せされ、穏やかだった
仮面の人格はすっ飛び暴力的な自我が顔を出し始める。
人前で名前が呼ばれず皆に無視され、誰にも注目されず悲しい
とき、傷ついた自尊心の涙がこぼれて自我が顔を出し始める。
式では自分の席が準備されず、自分の名前が呼ばれない時、
エゴは傷つき自我が発動してくる。
自分が憎まれ、自分が軽んじられ、自分がいたぶらるとき
その自分を無視し軽視する相手の自我を攻撃し非難している
自分の自我の活動に気が付きはじめる。
暗闇に放り出され周りに誰もいないとき、怖さと恐ろしさに
怯える私自我が震え出す。
フトした出来事に今まで隠れていて気が付かなかったエゴ自我
が顔を出し驚いてしまう。
自分が自分のそれらの自我に気が付くとき。
人はなんとかして自分を変えようと努力し、色々と自己を超克し
よう、自我を撲滅しようとワークし安心を得ようと努力する。
しかしその自我を変えようとして努力している私こそが、自我
自身なのではないのか?
自分を良くしよう、相手を良くしようとしているものこそが
自我なのではないか?・・と思考することが出来る。
自我を観察し、相手の中に自我を見ている私とは誰なのか?
相手を変えようとしている者は誰なのか?
それこそが自我なのではないか?
私自我が自分自身を変えようと努力し、人々を愛せるようになろう
、自分を愛せるようになろうと必死になっているのである。
自分の中に
そして
相手の中に
自我を観察し、自我を変えようと努力しているものこそが自我な
のではないか。
自我を見て自我を撲滅しようとしているのが自我なのではないか?
自我を恐れて自我から逃避しようとしているのが自我なのではないか?
自我を良くしようと努力しているのが自我なのではないか!
自我が自分の中にいる自我を観察しているのではないか!
自我が自我を相手の中に見て相手を非難し相手を良くしようとしているのだ!
相手のそして私の中に自我を見ているのは自分の中にいる自我である!
クリシュナムルティーは言う
「観察者は観察される者である」
「見るものは見られるものである」と
そしてラーマクリシュナはいう
「私達は自我に対して何の支配権も持っていません」
「全ての思考と感情と行為は純粋精神が起こしています」
「自我は高次の力から生じ、その自我の存在も高次の力に
依存しています」と
自分の中にいる自我が、ある条件下で顔を出し自我を観察
し、そして自我が自我を撲滅しようとしているのだ。
自我を消滅させようと努力している者こそ自我なのに私達は
それに気が付かず自我に欺され続けている。
自分の中にいる自我が、相手として自分の自我を知覚している!!
それが自我の狡猾さなのではないか。
それなのでクリシュナムルティーは観察者を見なさいという。
正しく見ることが変革の始まりであると云うのである。
自我を観察しているものを見なさいと言う。
ラマナ・マハリシはいう
「私達はその自我(自我とは自分や他人の中に自我を観察する
自我の観察者)を観照する単なる目撃者になるかという選
択の自由だけを持っているのだ」
と。
ラーマクリシュナは言います。
「「私は機械である」と悟らない間は、あのお方は罪と徳の感覚
喜びと悲しみの感覚、清浄と不浄の感覚、良いと悪いの感覚を
私達の中に残して置かれるのである、責任感を残しておかれる
のである」と。
ここから導き出される結論、それは非常に慎重にならざるを得
ない結論があるように思われます。
ラーマクリシュナがいうように神が自我を使って世界を演じて
おられるのならば、では、究極的には全ては神の中であり、現象界
で何が起ころうとも全ては良しということになってしまいます。
神以外なにものも存在していない。大宇宙の正確無比な幾何学
的な整合性、人体の驚異など、私達の思考や感情記憶を生み出し、
呼吸し脳を動かし、そして個人として生きておられる大生命・
大叡智「サムシンググレート」。それ以外には何ものをも存在してい
ないのではないのかという結論に到達してしまうことなので
あります。そのサムシンググレートが自我を使って現象界を演
じておられるというのであります。
それはまた以下の結論にも至ることでありましょう。
確かに神に全託し、神に祈り、神に全てを委ね、神の元に帰還し
ようとすることは発心であり、修行であり、どの教えでもそれが
基本となっている・・がしかし、それは同時に神以外に私という神と
分離している個人が存在していると言うことが大前提にあり、神
と私が分離しているという虚偽の知覚をかえって強調してしまう
ということになりかねないのではないかと思われます。
即ち神以外に私が存在しているという虚偽の知覚が前提になって
しまっているということであります。
そして悲しいかな、この神以外に私というものが神とは別に独立
し分離して存在しているという、その誤った信仰が苦しく悲しい
この世界を創りだしているようにも思われたりするのです。