汝、生まれ変わらなければ神の国入ること能わず・・聖書
私の感想
キリストが
「汝よ、生まれ変わらなければ神の国に入ることは出来ない」
と仰ったのに
対して、
ニコデモはそれを肉体が生まれ変わると解釈して
「私が再び母親の子宮に入ることは不可能です」と答えました。
ニコデモは生まれ変わりを肉体の事だと誤解したのです。
それはまた、この世に再び生まれ変わる輪廻転生と解釈して
もそれは間違いです。
通常の生まれ変わると言うことは、死んだ肉体から離れて、また
異なる国や民族の肉体に結合し同じ自我自己は死なないで転生す
ると言うことであり
このキリストが言っている「生まれ変わり」では全くありません。
このキリストが言う「生まれ変わり」は輪廻転生ではありません。
輪廻転生では決して生まれ変われるわけではなく、自我が継続し
てしまうので自我は生き続けてしまうのです。それでは、その自我・
私は「神の国に入ること」はできないのであります。
・・自と他に分離している知覚がある以上それは不可能であります。
・・内部と外部が異なる知覚がある以上はそれは不可能であります。
キリストが「生まれ変わらなければ、神の国入ること能わず」と
言ったのは、
肉体の死ではなくて、私を覆い隠している私たち自身が思考であり、
自他の分離である以上はこの私達自身が自己の死を実現しなければ
ならないと言うことでありましょう。
自我の死がなく、自我からの脱皮がなければ、従って、当然なこと
ながら神の国入ることは出来ない。と言う意味であろうと思われます。
これはクリシュナムルティーの「思考なく見なさい」と同じであって
「思考なく見る」ためにはこの思考の私が死ななければならないという
こと。
それは道元の言う身心脱落でもありましょう。
そしてその為には内なる恩寵がなければ「思考なく見る」ということは
起こらないといわれています。
キリストの神の国とは「思考なく見ている真実の世界」であり、その
「思考なく見る」事が起こるためには
内なる恩寵がなければならず
その内なる恩寵が起こるためには
絶えざる自己観察と自己想起が必須でありましょう。
絶えざる自己観察と自己想起が「思考の終焉」即ち自我の終焉を齎す・・
即ち、この私自身の死が必須の条件だというのです。
この新たに誕生した目・・それは思考なく見ている目でもあり
この目が誕生するまでは「真の私」は誕生していないと言うこ
とであります。
「真の私」とは「私はあなた」であり、「敵を愛している私」
の事でありましょう。
ではこの新たなる私の誕生、神の国に入ることが出来る私
即ち思考なく見ることが出来るためにはどうしたらよいのでしょうか?
それは
思考の終焉、自我の死、のことでありますが
どうしたらよいのでしょうか?
それは「汝の敵を愛せよ」でありましょう。
では汝の敵とはなんでしょうか?
それは私という思考であり、自他の分離であり、記憶であり、私と
万物の分離、私と神の子との分離、私とあなたの分割、見る者と見
られれるものの区別であり
記憶であることでありましょう。
敵と味方、天使と悪魔、善と悪という二元対立の識別でもありましょう。
ではここでキリストが示している方法とは・・・
それは「汝の敵を愛せよ」「右の頬を打たれたら左の頬を差し出せ」
の実行であります。
それはまたクリシュナムルティーが示している方法・・・・
自己観察・・自己を観照すること・・
即ち絶えることなく動いている思考を見ること・・
私は見ていないということを見ること・・
全て一切は神であるのに、その一切万物を神ではないと見ていること。
虚偽を虚偽と見ること・・
思考を思考として観察すること・・
即ち正確で全くの客観的視点からの自己・自我観察であり、
自己・自我と言う神の演技を神の演技として見ること・・
神のマーヤを神のマーヤとしてみること・・
でありましょうか。
この自己観察とは
それはまた「私ではないものを私ではない」と見ている自己の想起
でもありましょう。
これはまた神道においては黒住宗忠師のいう
「立ち向かう人の心は鏡なり己が姿を写してや見ん」
の実行でもあります。
道元の言う「只管打坐」でもあります。
いずれにせよ
言葉や地域や時代によって、表現や方法は異なっていても
真理は一つであり
同じ事を指し示されております。
自他に分離している神のマーヤである私がいなくなったとき
そこに始めから在った私が
燦然と輝いていることでありましょう。
では神のマーヤとは何でありましょうか?
それは
行為は起こっているのに私が行為していると知覚していること。
思考は起こっているのに私が思考していると知覚していること。
私とは神の演技なのに、私が生きていると知覚していること。
呼吸は神が呼吸しているのに私が呼吸していると錯覚すること。
心臓は神が動かしているのに私の心臓だと錯覚すること。
脳は神のもので脳の結果が私なのに私の脳だと錯覚すること。
肉体は神のものであるのに「私の肉体だ」と思い込むこと。
私の人生とは神が演じておられる神の人生なのに私の人生だと錯覚すること。
などでありましょうか。
ミルダッドは言います
「人間は内なる神に焼き尽くされるまでは
死んでいるときも、生きているときも、人間であり続ける。
内なる神に焼き尽くされるとは
人間が「一なるもの」と一つであることを
理解することである」と。