あなたがたの眼は、あまりにも多くのヴェールで覆
それ自身ヴェールであり産着であるあなたがたの眼が、
どうしてヴェールと産着以外のところにあなたを導けようか?
ヴェールを貫くためには、旋毛とまぶたと眉で駱った眼とは
異なる眼が必要だ。もし事物を正しく見たいのならば、
事物を放っておきなさい。事物を変えようと心を砕かないよ
うにしなさい。・・ミルダッド
私の感想
重要なのはここでミルダッドは私達に、もし事物を正しく見たいの
ならば、 まず「私達は眼それ自身を正しく見るようにしなさい。」
・・と言っていることです。
この眼とは私達自身の目のことでありましょう。
しかし私達自身の目とはヴェールよって塞がれてしまっています。
では、どうすれば私達は自分自身を見ることが出来るのでしょうか?
それは私達はヴェールよって塞がれてしまっていて、私達の目は
即ち盲目状態になっているということでありますから私達は見え
ていないと言うことをまずはじめに認識することが必要であると
言うことでありましょう。
私達が見ている内部や外部世界とは私達が見ているのではなくて
私達を覆っているヴェールが見ているヴェールの内部と外部世界
だということであります。ですから、私達が見ているのではなく
ヴェールが見ているのであって私達は見えていないと言うことを
自覚しなさいということでありましょう。
ですからヴェールで覆われている以上はこの目以外にある自分の
目のことは信じるしか方法がないのです。
これはソクラテスの「私は知らないと言うことを知っている」でも
あります。ですから「私はヴェールで包まれているので見えていな
いと言うことを見ています」が正しい答えでありましょう。
・・この正しい答えをしているのは高次思考であると思われます。
これに反し受動思考である記憶の反応は「私は見えているのだ」
であります。未形成ではあってもこの高次思考をするサイコノエティ
ック体というは「私は記憶のヴェールに包まれていて見えていな
い」ということが見えているわけです。否定的接近をしているのは
魂と繋がっているサイコノエティック体です。
その高次思考とは行為し、思考し、知覚し、意識決定しているのは
神であり、魂の私は思考しておらず、行為していないことを知って
います。魂の私が思考し、行為し、知覚し、自由意志を持っている
と思っている肉体(エーテル複体)と入り結合したのです。
しかし
ここでいうサイコノエティック体とはルドルフ・シュタイナーが言
う肉体と同時に形成されていく思考体・感情体のことではなく、魂の
一部としてのサイコノエティック体。即ちシャンカラの言う自我体
「ヴィジュアナマーヤコーシャ」・転生している魂・コーザル体と繋がって
いて再形成される見込のある四魂・チャクラ体のことだと推測してい
ます。同じ思考でも受動思考とサイコノエティック体からの高次思考は
異なるのです。
通常、ここで間違ってしまうのは自己想起しなさいと言われている
神の子の私達とは自我というヴェールに覆われてしまっているので、
このヴェールが世界を見、妻や夫やこどもを見ており、そしてヴェ
ール(記憶)が話しをし、考え、そして行為していると言うことな
のであります。従って自分を見る目が塞がれている以上は自分を見
ることが出来ない状態なのです。ヴェールがヴェールを見ており、
ヴェールがヴェールのことを自分だと判断して、ヴェールが自らを
非難し逃避しているのです。
私が見ている相手や自分とは、すべてが私を覆っているヴェール自身の
姿なのです。
誤って自分だと思われ、全く疑がわれたことのない思考や感情や想念や
欲望や知覚とは全てそのヴェールなのでありましょう。
しかしその高次思考をするヴェールとは受精受胎と同時に形成されている
アストラル体メンタル体のとは異なり、胎児が母親の肉体から新たに別れ
誕生したその呼気「おぎゃー」という声と同時に新生児の肉体脳及び準備さ
れている霊的諸体に結合した魂の一部を形成しているサイコノエティック体
なのです。
この魂の一部のサイコノエティック体はコーザル体と繋がり輪廻転生してい
る霊的諸体・ヴェールであり、形成途中の高次思考体・高次感情体でもあり
肉体の死後、冥界や幽界や霊界にて過ごし転生に際しては魂から分離し大元
の質料に戻る想念形態としてのアストラル体メンタル体とは異なります。
私達の眼は思考・自我という色んなヴェールによって覆われているので、
私達はこの自分を覆っている受動思考の記憶である自我を自分だと信じ
ており疑いません。
誰も疑ったこともなく、何回生まれ変わってもこのヴェールを自分だと
固く信じ込んでいます。
実際は私達が見ている対象は私達の目が見ているものではなくてヴェ
ールが見ているヴェール自身の姿・内容です。自我が自我を見て
いるのであります。色々人生を切り盛りしているのはこのヴェールです。
ですのでミルダッドは目は眼それ自身を見るようにしなさいと言
っておられるのであります。
それは私達はヴェールよって包まれているのでヴェールしか見えて
いないということを見なさいと仰っておられるのです。正しくは
思考は私達ではないので、私達である意識を、思考が写し出され
ているスクリーンを、自己想起しなさいとも言っておられるのであ
りましょう。意識スクリーンとは三層からなる霊魂のことでありま
しょう。観照者の私でありましょう。
しかしながら現段階の私達とはヴェールで覆われている以上はどう
してヴェール無しで意識というスクリーン・鏡を見ることが出来る
のでしょうか?
それは不可能でありましょう。
ここでクリシュナムルティーからの言葉があります。
「虚偽を虚偽と見よ!」
そして
「虚偽の中に真理を見よ!」
即ち
「思考の隙間を見よ!」と。
自我、思考、虚偽が如何に私達自身を覆い包んでいても、
それは、スクリーン・鏡が在るから、そこに自我も生きてい
られるのであります。自我に覆い包まれてしまっている私達(鏡・
意識)がそこに在るから自我・思考も生活出来ているのです。
私達は自我に包まれていても本当は神の子なのです。魂なのです、
ということでありましょう。
ですので思考を呼吸を止めて思考なく凝視しなさいと言うのです。
これは「虚偽を虚偽と見ること」で「虚偽の中に真理を見る」
即ち、「思考の隙間」(意識・スクリーン・鏡・観照者)を
発見しなさい・・と言うことであります。これは具体的な方法論です。
即ち記憶の本質である自我エゴという「分離している思考」や
欲望の隙間を発見しなさいと言っておられるのであります。
思考や欲望や自我の根源を判断無しで見なさいと言っておられるのです。
これはラマナ・マハリシがいう「塩人形が自分である海を
見に行って海に溶けてしまう」と言うことと全く同じです。
しかしここで間違ってしまうのは自己想起しなさいと言われている
神の子の私達とは自我というヴェールに覆われてしまっているので、
このヴェールが世界を見、妻や夫やこどもを見ており、そしてヴェ
ール(記憶)が話しをし、考え、そして仕事をしていると言う現状を
まずはじめに認識する必要が有るということであります。
ヴェールに覆われている以上は肯定的接近が出来ないのです。
ヴェールに覆われている以上は否定的接近しか出来ないのです。
そして否定的接近をしているのはサイコノエティック体である高次思考で
ありましょう。受動思考ではありません。
私達は賢者達が言っている思考には2種類あり、一つは潜在意識にある
記憶からの反応としての思考・・即ち受動思考であり、もう一つは
魂と繋がっている未形成状態のサイコノエティック体の思考、即ち
高次思考です。これを混同してはなりませんと教えられております。
私達の眼は思考・自我というヴェールに包まれ、私達はこの自分を覆っ
ている受動思考即ち自我を自分だと信じて疑いません。
知覚している者も知覚されている者もそれはこのヴェール群なのです。
ですのでラマナ・マハリシたちは「私達は自我に対する何の支配権も
持っていません。」「思考や行為は起きているのです」と教えているの
でしょう。「自我は神がお使いになっておられる」というのです。
ヴェールという思考は「意識」ではないので、私達である意識を、即ち
思考が写し出されているスクリーンを自己想起しなさいと言ってお
られるのであります。自己想起できなければ信じなさいと。
誰が自己想起するのでしょうか?それは高次思考であるサイ
コノエティック体でありましょう。
これは即ちこの記事を読んでいるのはあなたではではなくてあな
たを覆い隠しているヴェール・自我であるということであります。
そしてこのヴェールは幾層にもわたっているのです。
では私達である霊魂を構成する未形成のサイコノエティック体そして
私達である七つのチャクラを隠しているヴェールとは何でしょうか?
私達が肉体に結合したことで私達が包まれてしまったヴェールは肉体以外
にも複数あると言われております。
①条件付けられている受信器である脳とその神の宮である肉体(エネルギー体も含む)
②その受信器である脳が受信した思考と記憶体(思考感情体、低次サイコノエティック体)
此処までは受動思考、受動感情、受動行為というプログラムに従って起こっているこ
とであり、日常生活はこの起こっている受動思考・受動行為で成り立っています。
この受動思考とはエゴ、我の心・人格・偽りの私・自他を分離している私という観念
のこと。根本無明のこと。
③黒住宗忠師のいう「天の心」。という今のところは充分形成されていない
高次サイコノエティック体即ち一霊四魂のうちの四魂のこと。チャクラのこと。
神の子の私達が育て上げなければならない私達の本当の身体・七つのチャ
クラのこと。競技を虚偽と見ている高次思考の私。
そしてヴェールに包まれているけれど私達自身である神の子の私とは
◎黒住宗忠師のいう「神の子の私」、肉体とダブってハート心臓近くにある霊太陽
真の私自身、遍く一切を生かし一切を照らしているハートに在る愛の太陽。真我。
私達が自分だと固く信じている思考している私とは私ではなくて私を覆っているヴェ
ールなのです。そしてそのヴェールとは神の演技なのですと。
私達は自分ではない思考・自我や肉体をはじめとするヴェールを自分自身
だと錯覚してしまっているのです。
見て、話して、聞いて、考えて行為しているのは私を覆っている記憶。
私の中の記憶です。ですからこそ、この思考、欲望、自我を抱きしめて
愛する必要が有ります。・・それらは私自身と分離していないのですから・・。
毎日の生活で考えているのは私ではなくてそのヴェール(肉体)だと
いうことであります。何故ならその記憶は自他を分離して見ており
私はあなたではないと・・そのように実感しているからです。
神の子の私は万物一切と一体なのです。と。
ミルダッドは私達は鏡・意識であり、私である鏡の表面に去来している
このヴェールという記憶即ち自我をハッキリと見なさい・・そしてその自
我の根源を見ることで自我の中に神を見なさい!!と言っているのであります。
思考の隙間を発見しなさい!思考が写し出されているスクリーン・意識
を発見しなさいと言っているのです。
通常の人生では私がベッドから目を覚まし、周りを見て、テレビを見たり
スマホをチェックして、会社に行って仕事をしていると思っているのですが
しかし実際には目を覚ましそれを行っているのは私達ではなく私達の記憶・
自我であり自我は私の中にいる受動思考・記憶であります。その自我・記
憶が内外の起こっている出来事に対して移動的に反応しているわけです。
しかしその受動思考とはサイコノエティック体の高次思考とは異なります
ですので、
決してその思考や感情や感覚や行為と私を同一化したりしてはいけないというの
です。眠り、夢を見て、目を覚ました私とは私を覆っている、私の中の記憶
ですと。
私達は意識という鏡・スクリーンなのであって、思考・自我はその
鏡・スクリーンの表面に現れている映像なのでありましょう。
私とは思考や感情や行為や、自他に分離している知覚認識ではなくて
それらが上映されているスクリーンであり、鏡であり、透明なる意識
であり、それは愛であり、無限に拡がっている空なのであると言って
おられるのであります。
考え、決断し、思索し、努力し、観察し、聞いて、行ない、話して
感じて、記憶しているのは私達ではなくて、それらは神の子の私達
を覆い包んでいるヴェール・自我であるということなのであります。
・・ここから先のこと
「では私達神の子の私とは?」
「私は誰か?」
「私自身を知っている私とは?」
との質問に答える事が出来るのは
神の子の私にしか答えることが出来ません。
この記憶に染まり、自我と同一化し目を瞑っている神の子の私に
は出来ません。
この私を包んでいる私自我とは記憶でありますから神の子の私
のことは答える事が出来ませんし、知ることも出来ないのです。
この記憶というヴェールに覆われてしまっている私には
自分を知ることが出来るためには自己想起、即ち「思考の隙間の
発見」が必須なのであります。
・・今のところは私はヴェールに覆われており、ヴェールが取り
払われない限りは決して自己を知ることはありません。
ヴェールが思っている自己とは記憶であり決して私ではないからです。
思考の隙間を発見しなければなりません。
・・と、思ったりもする今日この頃です。
・・しかしながらなかなか忙しい毎日の中で上記のワークを
実践することは難しいですね。