汝自身を知れ・・ギリシャのデルフォイの神託
私の感想
ソクラテスは常に「汝自身を知れ」と教えていました。
ラマナ・マハリシは「私は誰か」といつも私達に問いかけました。
クリシュナムルティーは「思考なく見よ」と語りかけていました。
では
私とは?
私とは何でしょうか?
私とは誰でしょうか?
または私の中の私ではないものとはなんでしょうか?
私達が間違って私だと思ってしまっているものとは何でしょうか?
これを聴いた私達は
「今更何でそんなことを聴くんだい?
自分は自分のことを一番知っているよ、私は私だよ。当たり前でしょうがな。
誰もがみんな知っていることを何で聴くんだい。あんた、頭がおかしいよ。」
とそう答えることでありましょう。ごく普通に私達は何の疑問を抱かずに
生活しているのです。
しかしそれはそうなのでしょうか?
私達は自分とは?などとは一切探求しないまま死んでいくのではないでし
ょうか?
お金と成功だけを求めても結局は最後は誰でも全てを失い死んで行く
というのに、何故人々はこの私の事に思いを抱かないのでしょうか?
私達が自分自身だとそう確信している私とは本当に私なのでありまし
ょうか?・・それともそれは神の映像なのでしょうか?
私達は私達の中の自分ではないものを自分だと信じ込んでいるのでしょうか?
もし、私達が自分自身だと確信している私が本当の私なのであるならば、
それが本当にそうであるならばラマナ・マハリシやソクラテスはわざわざ
私達に「私は誰か」「汝自身を知れ」などとは問いかけはしなかったこと
でありましょう。
クリシュナムルティーは私達が私達ではない思考と完全に一体化してし
まっているので常に「思考なく見よ!!」と語っていたのです。
「あなたは成るのではなく在るのです」と教えておられたのです。
私達人類は全員が「自分ではない私」を私だと思い込んでいるのでしょう。
私達は「自分は肉体だと思い込んでいる記憶の塊」を私だと思い違い
しているのです!!
・・と言うよりも勘違いしている私は自我であり神の映像なのです。
私達人類は全員が「自分という自我・思考・自我」を私だと固く
信じているのです!!
それはパソコンの記憶が私だと言っているようなもの。
AIが自己意識を持っていて自分だと言っているよう
なものです。
そして私達はそれを誰も一回も疑ったことなどないのです。
私達人類は全員が「私は私だと実感している自我・思考・記憶」を私
だと思い込んでしまっていて、その自我から抜け出せないのでいるの
です。
・・しかし注意しなければならないのは此処で言う私達とはこの
「パソコンの記憶の私」にとっては未知なる私であると言うことです。
通常の生活で私が自分だと意識し、意識されている私とはパソコ
ンの記憶と同じであり、人類全員が等しく条件付けられている脳
が受信した「私という観念」でありその記憶の反応に過ぎません。
「この脳の五感という知覚、これは本当に私達の知覚なのだろうか?」
「この五感ではない魂の超感覚的な知覚もあるのではないのか?」な
どと疑問を持ったことなど人生で一度もないのです。
覚者達に私達とは一霊四魂だと言われても全く信じないのです。
私達が自分だと思い込んでいる私とは本当は私ではないのです!!
この自分を自分自身だと思っているこの私とは条件付けられている
脳の記憶なのです。
・・「え!!なにそれ、君の言っていることは分からないよハッハ」
が私たちの普通の反応です。
なので聖賢達は私達に汝自身を知りなさいと教えておられるのです。
では改めてこのソクラテスの質問に襟を正して向き合いましょう。
私とは誰なのか?
本当の私とは如何なる私なのでありましょうか?
この既知なる脳の反応である私の事ではなくて未知なる私の事です。
本当の私とはどのような意識でどのように世界を見て世界を知覚して
いるのでありましょうか?
神道の黒住宗忠師は「全ての人は神の子である」と仰いました。
ミルダッドは「人はヴェールに包まれた神の子である」と言いました。
キリストは「神はあなたの只中にある」と言いました。
仏陀は「一切万物は仏である」と言いました。
しかし現実の自分自身を見るのならば、それは全く的を得ていません。
私達は自分自身・自分のことを神の子だと到底思えませんし言えません。
むしろ私達は自分とは自我丸出しの愛の欠片もない人間に思えるのです。
・・そうです、そのとおりです。この今意識している私は神の子の私を
覆い隠している脳の記憶の反応なのですから・・当然です。
黒住宗忠師や悟った方々の目には私達は神の子と見えているのですが
私達には、その目がないので私とは神の子ではなくて私とは自我その
ものであるように見えているのです。
ではソクラテスやラマナ・マハリシが指摘するように私達は神の子な
のでしょうか?
私はその答えを知識として色々と本で読んだので頭では知っています。
但しそれは実体験ではないので、単なる知識ですから本物ではありません。
従って私は実際には何も知らないのです。私は自分の私の事を知りません。
しかし賢者が語ったことは知識で知っているし情報としては話すことが出来
ます。
私とは・・
『真実の私とは・・・
それはこの既知なる私にとっては未知なる私の事ですけれども、
それはラーマクリシュナやラマナ・マハリシによって真我と
言われている私のことです。
私・・私とは・・それはあなたなのです!
私とは目の前のあなたです!!』と
・・え!
なんだって!・・それは常識やこの脳の知覚では全く考えられません!
しかし私達人類の頭脳が生み出した思考や頭脳や霊的諸体の知覚を超
えた魂の知覚を得た方は次のように仰います。
『私とはあなたなのです!
私とあなたは別々ではないのです!!
私とあなたを区別して実感している私とは私ではありません!その私
それは私を覆い尽くして、私は自分だと実感している記憶の思考なの
です。』
『好きな人も嫌いな人も、私を無視する人も、テレビの司会者も私です!
日に焼けた出稼ぎの労働者も、シャネルを買いあさる金持ちも
街を歩く子連れの主婦も、すれ違う腰の曲がった老人も、乞食も、
頭がおかしい変質者も、天才も、障害者も、死ぬ人も生まれる人も。
実際は自他は分離しておらず一体なのです。私は全人類なのです。』と
『宇宙の人類即ち地球にやってきているエルダーブラザーも私なの
です』『本当は宇宙の全ての私とあなたは分離していないのです。
自他の分離は嘘なのです!!虚偽なのです。自他の分離は脳が生
み出した人類共通の虚構なのです。』
『目の前のひとは誰もが・・・親でも子でも、隣人でも、電車で隣に
座った人でも、全ての人は本当の実際は私自身なのです。
私とはあなたであり、私達は一体なのです!
癌で苦しんでいる人、腰の曲がった老人、生まれたばかりの赤ちゃんも
私です。私はあなたです!!戦い合う殺す人も殺される人も私です!
私は苦しむ人、怒っている人、飢えている人であり敵であり味方です。
私が見ている他者とは実は私自身なのです。
私が非難している相手とは実際は自分自身なのです。』
『私は相手であり、他人は本当は私自身だったのです!!!
それが真実であり、それが思考が消え去った知覚なのです。』
けれどもそれなのに、私達は到底それを受け容れることは出来ませんし、
それを全く理解することもありません。
何故ならばこの今現在の私とはロボットであり、機械であり、パソコンの
記憶と同じ条件付けられた脳の記憶の反応に過ぎないからです。この私とは
それは、条件付けられている脳が肉体を私だと知覚している記憶なのです。
そしてその記憶の反応とはまさしく「本当の私である真我」ではない私な
のです。
ですから、この真実を言ったら頭がおかしいのではと思われることでしょう。
何故でしょうか?
これを読んでいるあなたはこれらの賢者の言葉に違和感を感じて決して
納得しないことでありましょう。
その納得していないあなたである私こそが私ではない「私という観念」
の私なのです。その私こそ条件付けられた脳が受けとった観念であり
その記憶なのです。そしてその記憶が起こっている出来事に反応して
います。
ラーマクリシュナはこの記憶である自我の私を使って神が行為し、思
考し、愛し、憎み、闘い、殺し合っているというのです!!?
実は神が私と言う自我を使って思考し行為しているというのです?!!
ですからこの今、行為していると実感している私とは神の映像の私、
神が使っておられる脳の記憶の反応なのです。
ラーマクリシュナは自我とは神の道具であると仰います。
ラーマクリシュナはこの私とは神の演技であり神なのだと言っておられます。
この記憶である自我を使って神が演じておられる・・・と仰るのです。
・・この言葉は全く常識では拒否されてしまうことでありましょう。
私が生きて呼吸して行為して生活しているのではなくて、神が生きて
おられて神が呼吸して、神が思考して行為して生活しているのだとい
うのです。
・・是は俄には到底受け容れられることではあり得ませんが、ラーマクリシ
ュナは生きて行為して思考している自我は神の演技である。神の映像で
あると言われるのです。即ち神が生きていると言うのです。
・・・ということはこの現在の私、人生を自分自身の人生だと自分の
力で努力していると実感している私とは神が演じているのだというの
です。神が生きていると言うことです。
自分は他人ではない・・・とそう思っている私・自我とは神の道具、
神の演技であって実際はその思考も、その行為も神が演じて、神が
私と言う自我を使って生きておられるのだと
・・・ということを教えておられるのです。???!
神がこの自我という私を使って私達の人生を生きておられるというの
です!!!
生きているのは個人の私ではなくて全てを生かしておられる神だと
いうのです。
そしてこの私の根本の私という観念が現象界を支配しているといいます。
・・この話は常識人の私には全くついて行ける話しではありません。
神の演技である私・・これは全くパソコンとそのパソコンを動かす電源
とパソコンの基本ソフトの関係と似ています。毎日仕事をして結局は死
んで行くこの私とはこのパソコンの記憶でありその反応なのです。
なので、これらを聞いてこの私という観念の私がこれらの聖者の言葉
には誰もが違和感を感じてしまうのです。それは聞いている者が記憶
だからです。
しかしながら、実際の究極の真実は、本当のことは・・・。
この私とは神が演じておられるのでありましょう。
肉体やエーテル複体や思考体感情体そして自我体である
ビジュアナマーヤコーシャも含めて神の演技、この神がお造り
になった諸体を使って神自らが演じておられるのでありましょう。
それはこの人類だけではなく他の星の人類も同様です。
シャンカラは言います・・「汝はそれなり」と。
クリシュナムルティーが常々言っていたように「見るものは見られる
ものである」であり、「自他は分離していない」といわれるのです。
ヒューレン博士が言うように「あなたは私」「私は世界」なのです。
ということなのでありましょう。
クリシュナムルティーの「見るものは見られるものである」とは見て
いる私は見られている万物であると言うことです。私達は自分を投影
して自分を外部に見ているのでありましょう。
脳に結合した霊魂の私は、神がお造りなり神が使っておられる肉体
と諸体にそして自分自身をその神の演技である「私という観念」の
記憶である自我と完全に一体化してしまっているのでしょうか。
しかしながら此処で言う霊魂の私とはこの今意識している記憶の反
応のことではありません。
私たちは目が塞がれていて到底正しく見ることが出来ませんが本当は
私達は肉体でもなく諸体でもなく魂で有り霊であり万物一切と私は一
つなのですと教えられております。
『私は私の見ている全てと一体であり、全ては全ての中に在ります。
コップも、椅子も、テーブルも、家も、ビルも、電車も、会社も、
道路も、山も、川も、動物も、植物も、私なのです。私と分離し
ているものなどどこにもいないのです。
さらに内部の一切の思考や感情も本当は私なのです私自身なのです』
と真我は言います。
これを書いている私は何故それをそうとは実感できず知覚できな
いで頭だけでこれを言っているのでしょうか?
それはこの私とは記憶の反応エゴ自我即ち記憶だからです。
正直に言えば本当は私は何も知りません。
林檎を食べたことがないのに美味しいよと言っているようなも
のです・・・。
黒住宗忠師が言っている「汝は神の子」であるというのに何故
私はそれを知覚することができないのでしょうか????
それは私・神の子の私を覆い包んでいる「私という観念」「自我」
が取り払われていないからでありましょう。そしてこの私とは
その覆いなのです。
ではどうすれば私からその自我が取り払われるのでしょうか?
それは自己観察と自己想起が為されていないからです。と
それは自分自身を必死に知ろうとしていないからでありましょう。
情熱が足りないのです。
私は誰かと真剣に探求していないからでありましょう。
それは私が真剣に全力で自己観察と自己想起をしていないか
らでありましょう。
ですから結論として私を知るためには自己観察が必要なのです。
考えている私、感じる私、恐怖に戦く私を観照することであり、
自己観察とは嫉妬して苦しむ私を観照することであり、
殺され絶望いている私を観照している事であり、
咄嗟に行為している私を観照している事であり、
夢見ている私を観照している事であり、
熟睡している私を観ている事でもあります。
それが自己観察です。
自己観察・・・自分ではない私・思考を私ではないと知ること。
「虚偽を虚偽と見ること」
思考や感情など私でないものを私ではないとみること。
私がこの人生を生きているのではなくて、神が「神の
演技」を使って神が人生を生きているのだとハッキリ
見ること。
自己想起・・・自分である神の子を自己想起して見続けること。
「虚偽の中に真理を見ること」「真理を真理と見ること」
私は世を照らす七つの燈台で在ることを見ること。
を実践していないからでありましょう。
現在のこの私はこのように怠惰であって頭だけの知識なのですが、
私は教えられたことをオウムのように言葉だけで話しています。
私には実体験がないので説得力はまるでありませんがそうなのです。
従ってソクラテスやラマナ・マハリシの質問への答えとは
『私とは世界であり。私は思考ではなく霊である。
私は愛であり、感謝である。
私の中に世界は在り、私の中に宇宙が有り
あなたは私であり「私はなるのではなく在ります」。
私は私の観ている万物一切の中に在り
一切万物の中に私はいます。
何故ならば「汝はそれなり」とウパニシャッドで言われているか
らです。』と
・・・
では実際のところ、本当の真実はどうなのでありましょうか?
私とはクリシュナムルティーが言うように
「見るものは見られるものである」なのであり
主体は客体なのです。対象と私は一体なのです。
全てが分離していないのです。
・・と言うことだと思います。
脳は誰が動かしているのでしょうか?勿論神です。
呼吸は誰が為ているのでしょうか?勿論神です。
誰が食べて、誰が思考して行為しているのでしょうか?
・・それは命であり、神なのです。決して私ではありません。
私が生きているのではありません。わたし自己自我はいないのです。
わたしではなくて神が生きておられるのです。
そして
『神が私として生きておられるのです。
私(神)が見ているものは私(神)自身だったのです。
神と私は一つだったのです。
私は神の子だったのです。
私は思考ではなくて意識であり、無限に拡がる空だったのです。
私は外部の観る対象で在り、対象世界は私の中に在るのでありましょう』
と。
それをそれなのに、この現在の私(自我)には世界が外部に有るように、
世界を私の対象として知覚し見えてしまっているのはなぜでしょうか?
それは
神の子の私が「私という観念」によって完全に覆われてしまい
その「私という観念」が見ているように神の子である私が
自分自身を見てしまい、自分は世界自体であるのに世界を自分
とは別ものの対象として自分とは関係していない別なものだと
自他に分離して見てしまっているのです。私は肉体ではなくて
諸体でもなく拡がっている空、意識、霊なのです。
それなのに自分は肉体であり、(行為しているのは私ではなくて
私という観念であるのに)自分が行為していると錯覚し、
思考は脳の記憶が思考しているのに自分の思考であり、自分が思
考していると誤解し、
出来事・・それらは起こっているのに自分が起こしていると誤解し・
感情も私の感情であり、想念も私の想念であると錯覚し、知覚も
脳が感じているのに私が感じていると思い込んで苦しんでいるのです。
自我・記憶が自分は自分であり、肉体であり人格であると錯覚して
います。自我が自分とは頭脳の化学反応であると錯覚しているので
あります。
しかし私は思考と言う記憶のヴェールで覆われているので自分を
観ることが出来ません。私の知覚は真実を見れないので、私では
ないものばかりだと錯覚しています。
けれども
『私とは神の子であり、意識であり、観照者なのです。全ては
一つなのです。
結論として私とは
肉体でもなく
思考でもなく
人格でもなく
感情でもなく
行為していないのです。
行為しているのは私ではない根本無明
神の神聖なるマーヤ「私という観念」なのです。』
『私はすでに神の子で在り純粋な意識であり
観照者であり、愛なのです。』
「私は成るのではなく在るのです」
と聖賢の方々は教えておられます。
・・・と、そのように私は信じているのです。