・・ラマナ・マハリシ
ラマナ・マハリシは言われます・・・
「現状に於ける困難は人が『私は行為者だと考えるからです』
しかしそれは誤りです。
行為そのものではなくて、「私は行為者だ」という感覚が束縛なのです。
全てを為すのは「高次の力」であり、人は単なる道具に過ぎないのです。
行動とは欲望に駆り立てられたものです。
欲望は自我が立ち現れた後に起こります。
自我も高次の力から生じ、その自我の存在も「高次の力」に依存します。
私達は自我に対する何の支配権も持ってはいません。
私達は自我を所有していると考える為、それを明け渡ししな
ければなりません。
明け渡しとは自己の存在の源に放棄することです。
帰依とはあなたの源を愛することです。
全身全霊であなたがあなたの源に最高の愛を捧げるとき
あなたはその源へと導かれます。
「心が消え去ると世界も消え去る」
世界を見ているのは個人の心でしかなく
この心が消え去るとき世界も消え去ります。
私達が真我を見るとき、そこに世界はなく、真我を見失うとき
私達は世界の中で束縛されてしまうのです。
起こる運命にある事は起こります。それは避けられません。
しかし運命を克服する、あるいは運命に依存しない方法が
二つだけあります。
一つは、この運命がだれにとってのものなのかを探求し、
束縛されているのは、真我ではなくて自我だけであって、
自我は存在しないと言うことを発見する方法。
もう一つは、いかに自分が無力であるかを悟り、「神様、
私は存在しません、ただあなただけです」と常にいうこ
とで神に完全に明け渡し、「私」と「私のもの」という
感覚を放棄して、神の意のままに自分を委ねることです。
完全な明け渡しのためには如何なる欲望も持たないことが
要求されます。
あなたは何であれ神が与えて下さったものに満足しなけ
ればならず、それはつまり、あなた自身の欲望を持たな
いことを意味するのです。」
私の感想
病魔に冒されて死の恐怖に慄き、殺戮する敵に殺され、失意と
絶望のどん底にのたうち回っている私は誰か?それは神なので
ある。と言っておられるのです。
苦しみ悲しみ恐れ憎悪に溢れた自我である私とは神であり
神の演技であり、神が思考し行為し、私やあなたや万物として
苦しみ死んで生きておられるのである。と言っておられます。
私が生きているのではなく神が私として生きておられるのだと。
私が思考し欲望し嫉妬しているのではなく神が思考し欲望し嫉
妬し、生まれ、死んで行くのだと。
私の肉体・脳ではなく、私のサイコノエティック体でもなく、
私の霊魂でもなく、私の私でもなく、私は神のもの。神が私
として生きておられる。私はいないのであると言っておられ
ます。そして自分が行為し自分自身が生きていると思っている
この私を根源である至高の実在に明け渡ししなさい、差し出し
なさいと言っておられるのであります。
この非常に高度で難解なラマナ・マハリシの言葉を解釈すると
現在の私達は脳の化学反応である感情や感覚そして思考や想念を
自分の反応であるとそのように思い込んでいるのであるが、それは
けっしてそうではなくて、肉体・脳と結合した私達霊魂が脳内に
起こっている化学反応やエゴ自我と自分自身を同一化してしまっ
ているということなのでありましょう。
脳内物質は私達に最悪の状態から至福の心理状態まで引き起こす
事が出来ます。
ここでいわれている私とは霊魂である私達の意識のことであり、
私とは意識であり、この脳内物質が引き起こす思考感情という
脳の化学反応のことではありませんし、その記憶である私エゴ
のことでもありません。
私とは肉体や脳と結合した「意識」のことであり、脳や脳の電
気信号や化学反応である記憶のことではないと言うことがラマ
ナ・マハリシの言葉の大前提となっております。
それら脳内物質による化学反応はプログラムにしたがって起こ
っており、その起こっている知覚、感覚、思考、感情、行為も
そしてその記憶である私・自己自我もハートに在る「私」霊魂
ではありません。私達霊魂の意識はこの脳から生じた記憶に
包まれ混濁しているのですと。
私達は如何に記憶に塗れ、脳と結合していても一霊四魂であ
り、意識だからこそラマナ・マハリシは私たちに向かって語
りかけているのです。「成るのではなく既に在るのだ」と。
私達人類は全員が同じ意識状態のように見えていても意識段
階はそれぞれ異なっているので知覚や認識もそれぞれの段階
で異なっています。
何故異なっているのかと言えば、それは魂を覆い包んでいる
記憶の濃さ、深さの違いであり、それは即ちサイコノエティ
ック体の形成度合い、即ちチャクラの開花具合によるのだと
推測しております。
通常私達の意識は以下の意識状態が入れ替わり立ち替わり出現
している混合・複合状態といえます。脳からの動物的本能及び
その衝動、そして脳が受信した記憶である思考感情とその反応、
そして稀ですが霊魂からの意識が混濁しており何処からどこま
でが脳自体の反応で、どれが記憶の反応なのかの区別がつかな
い状態でいるのです。私達意識はこの記憶によって覆われてし
まっているのでこの私達である霊魂の意識は殆ど現れることが
ないのでありましょう。
通常私達は脳の目で見ているので、全ては対立し、分離してい
るように見えますし自分が行為して、自分が一生懸命努力して
自分の人生をより良い自己実現へと切り開いているように見え
ます・・・がしかし、魂の目で見た場合、ラマナ・マハリシの
いうように、「誰も何も為ていない。誰も何もすることはないし
誰も何もすることは出来ません。・・全ては神であり、神以外に
何も存在していないのです」となるのでしょう。下記に記述した
意識の階梯とはあくまでこちら側即ち現象界・マインド・分離
世界からの目による階層・段階・階梯のことであり、魂の分離
していない目から見た現象界の真実は全て万物一切が神であり
最低の意識から最高の意識までが全ては神であること、愛に
値しないものは何も存在していない事でありましょう。
Ⅰ:本能的意識状態:脳内での化学物質の反応のままに生きている状態
(脳神経の化学物質によって惹起している思考、感情、
想念、知覚、行為及び外部情報にコントロールされ洗
脳されている意識状態即ち地球人類の平均的意識
状態のこと)
脳からのしかも動物と同じ本能の脳から見ている世界。
Ⅱ:潜在意識的意識状態:教育を受けた私達の一般的な意識状態のこと
であり、
脳と結合している私達霊魂の意識の潜在意識にある記
憶の反応と一体化してしまっている状態のこと。
起こった出来事に対し、反応する記憶、その記憶が支
配し、記憶に支配されている私達通常の意識状態のこ
と。脳からの記憶が見ている世界。
毎日の普通の生活の中で起こっている脳内物質からの
感情や思考に対して反応しているこの潜在意識の記憶
に意識が占領されてしまっている状態。
その脳からの記憶と私達である意識が一体化してしま
っている意識状態のこと。
この記憶や記憶の反応のことを通常は私達は自分自身
だと確信して疑わないでいるのだが、それは潜在意識
にある記憶の反応、即ち思考、想念に他ならない。
肉体とともに生育している思考体、感情体の状態のこ
と、エレメンタル、想念形態、自我のことでもある。
この記憶の反応とは観察者のことでもあり、クリシュ
ナムルティーはこの観察者即ち記憶によって観察され
ている観察対象である相手とは実際には対象を観察し
ている観察者即ち記憶自身に他ならない、即ち「見る
ものは見られるものである」と言っています。
これは黒住宗忠師のいう「立ち向かう人の心は鏡なり
己が姿を写してや見ん」と全く同じであります。
私達が非難している相手とは実際には自分自身の姿な
のであります。
意識的意識状態:これは起こっている内面や外面の出来事に反応している観察者
即ち潜在意識にある記憶の反応のことを思考なく、非難無く、
判断なく、観照している観照者の意識状態のことで、現在の地
球人類においては殆ど見かけることがない意識状態。記憶の
反応を記憶の反応として正しく観ているサイコノエティック
体の意識状態のこと、またはある程度チャクラが機能してい
る状態であると思われます。
「虚偽を虚偽と観ていることの中に真理が出現する」
「あるがままをあるがままに観ることがあるがままを変容
させる」と言われております。
肉体脳の反応や又更にその記憶の反応ではなくて、それら
を写し出しているスクリーン、若しくは意識の座、鏡とも
呼ばれている霊魂の意識であります。
肉体脳と記憶である私が霊魂の意識と繋がった意識状態。
即ち記憶・私が脱落した状態。
魂の目から見ている世界。
超意識的意識状態:これは観照者の内奥の意識と言われています。 記憶
の反応である思考・人格・エゴをただただ観ている意識
のこと。ハートに在る大元の意識の状態のことで、魂の
意識、内奥の「I AM」の意識。愛、ワンネスの意識
とも呼ばれておりますが、恥ずかしながら現在の私には
全くもって知ることが無い未知なる私のこと。霊魂の内
奥の至高の実在の意識であると思われます。