私達は自由ではない・・クリシュナムルティー


私の感想

「私達は自由ではない」・・とクリシュナムルティーは仰います。

私達は記憶の反応と一体化し、記憶を自分だと思ってしまっていると。



地球人類の肉体に入って脳と結合した結果、私達は脳に縛られています。

自分自身を忘れ果ててしまっていると言われます。

そしてその自分自身を忘れ果ててしまっている私達は本当は表面意識・

潜在意識・超意識からなる霊魂であるのに、この地球の人間の肉体と

脳に結合して、自分はこの地球人の個別の肉体だと錯覚してしまった

のです。

何故錯覚したのかと云えば、私である霊魂の意識は目が覚めておらず

自分自身を知らないためです。

また何故、目が覚めてないのかは、目が覚めていないことに気が付いて

いないから目を覚ますことができないのです。

そう言うわけでこの地球の人類の肉体に結合した私達は脳が受信し、

その記憶が発信している思考や感情を自分だと信じて疑いません。

肉体を自分だと思い、思考や感情を自分だと確信している記憶と一体化

してしまっているからです。記憶は私達ではないのです。脳が受信した

思考なのです。

私達は本来は意識であり自由なのに思考や感情と一体化しており自分は

肉体であり思考であり感情だと信じ込んでしまっていて自由ではない

といわれています。何故なら思考や感情は分離二元性であり、他と異な

っている私があると錯覚しているからです。ですからその錯覚という

思考に完全に囲まれ染まってい待っているので自由ではないと云うの

です。




・・・そして記憶はこう言うのです。


「そんなことはない。何だと!私達は何でも出来るし自由意志があるんだ」

と、私達は誰もが記憶に染まり自分には自由があると信じて疑いません。

しかし自分の内部のことを観察すれば決して私達は自由ではないことが

分かるのではないでしょうか。

必然として起こっている内部と外部に対して常に潜在意識の記憶から

条件反応が起こっているからですと。記憶であるカルマDNAからの衝

動や切望や欲望がそして、その思考や感情や行為が起こってきています。

そのように絶えずそれら起こっている事に対しての反応が記憶から発生

しています。

内側と外側の起こっている出来事に対してその反応である思考や感情や

行為を、その潜在意識からの記憶の反応を私達は自分自身だと信じて疑

いません。


私達はどの国の誰もが同じ条件付けられた脳なのであり、人類の誰もが

同じく誰一人として違わず同じ脳であり脳の機能によって条件付けられ

ています。

脳は全人類の誰もが同じ構造、同じ機能、同じ様に働いているからです。

例外なく同じように感じ、同じように考え、同じように欲望しています。

そしてその全人類で同じ脳は「私は肉体であって、私は自分以外の人と

は違うのだ、私は他者とは異なる独立した自由意志を持った個人なのだ」

と思っています。・・そしてこの脳と私達は結ばれているのです・・。


では、この脳と結ばれてしまっている私とは誰でありしょうか?

それは、私を観照している私・霊魂の意識であることでしょう。


この現在意識の分離している私を私と思っている私とは、魂と繋がる私

なのではないしょうか?それは迷える神の子羊、真理の種子である私な

のではないでしょうか?本当は神の子だったのです。


私達は宇宙や地球での異なる生命体や人種であっても、どの国民でも、

そして如何なる宗教を信じていても、理性的で科学的であっても誰も

が同じような欲望に塗れています。

誰もが競争し、同じ様に恐れ、同じように感じ、そして同じように行動します。

私達はこの自分を私だと意識しています。がそれは全員が同じ脳だからです。

それは創られて機能しているこの脳が人類・宇宙人類・宇宙生物が全員とも

全く同じで、私達の意識はこの脳によってコントロールれているからであ

りましょう。

脳は「この肉体は私のものだ、私は個人で、私の脳だ」と信じていて疑

うことがありません。



私達は

起こっている自由意志を、意志とは自分が決定したと思って疑いません。

起こっている行為を、自分の意志で自分が行為したと思って疑いません。

起こっている思考を、自分が思考しているのだと信じて疑いません。

それらは脳が受信し、潜在意識に記憶として蓄積されている情報です。

パソコンの記憶と同じです、そのパソコンの記憶、ソフトによって

支配されているのです。


そして、その様にこの地球人類の全員が同じように思考に依って条件付

けられています。

人は自分が何時どこに生まれるかを選んでいるのではなく、その誕生も

死も、環境も人生も、それは好むと好まざるとに関係なく決まっている

ものなのです。自分では自分の生死や、自分の人種や国籍や境遇や才能

や自分に起こる出来事は選択できないのです。この私を観照している至

高の叡智が選択していることでありましょう。

此処で言う人とは、自分のことを私だと思っている記憶であると言う

ことです。



誕生も死も、そしてあらゆる出来事もあらゆる思考も感情も本来の私と

関係なく起こっています。なのに、私達は私は肉体であり、人格であり

その私の選択で生まれてきて、そして自分が自由に思考し行為して、自

分が死ぬと思っていますが・・。

実際にはあらゆる出来事も、起こっている思考や感情や行為も生も死も

そしてそれに反応する記憶すなわち自我の反応も私達のコントロール下

にはありません。ラーマクリシュナが言うように、神が自我を演じて生きて

おられるのであり、自我はそれを「自分の意志で自分が意識して生きている

自分の人生だ」と。そう錯覚しています。が、実際にはその自由意志も、意識

も感覚や知覚も自由意志も行為も思考や感情も神が演じておられるのですと。


その起こっていること、プログラムされて思考し行為する肉体と脳に私達

は結びつけられ、私は劇場の中の演者として誕生し、そして死ぬと思うの

です。


私達は生まれて、そして死んでも自分自身を知ることがありません。

私達は霊魂であり神の子であり内奥では神と一つであり、私の中に世

界と宇宙が有るということを知らないといわれているのです。



そういうことなので、意識が目覚めない限りは私達人類は記憶の束縛

に染まり寝ても覚めても、熟睡中も夢の中でも私達は決して自由ではない。

とクリシュナムルティーは言うのでありましょう。思考の奴隷、私と

いう観念の奴隷なのです。

真の私が覚醒しない限りは生と死を繰り返すのでありましょう。



また同じようにクリシュナムルティーはこの脳の記憶の反応である

既知なる私とは私ではないと。記憶の反応は魂と繋がっているサイ

コノエティック体の私ではないと言われます。


魂と繋がっているサイコノエティック体とは神道では鏡と言われています。



私とはこの既知なる私にとっては未知であり、既知なる私にとっては

未知なる私こそが本当の私であるということです。

既知なる私とは、肉体に入った私達が自分だと錯覚している私、即ち

記憶です。記憶即ち人格の私です。この私は私を覆っている記憶です。


私たちは下着をつけ、上着を纏い、更にはコートを着て、おまけに

目にはサングラスを付けているのですと。ここでいう私とは記憶の私

のことではなく魂と繋がる未だ眠ってしまっている未知なる私の事です。


私達は自他の分離というサングラス、私は神と分離しているというサン

グラス、自我というサングラスで眼を被われているのでありましょう。


この現在の人類が自分だと思っている自分・私とはこの既知なる私、即

ち記憶の反応の私の事であり、この既知なる私とは私を詐称する記憶の

思考のことであって決してあなた(私)ではないと仰います。


私は世界であり、私の中に世界と宇宙が有り、一切万物があるのだと。


私とは如何に記憶に塗れていても神の子であり霊魂なのですと。

私達は自分自身をこの既知なる私・記憶と混合してしまっているのです。


既知なる私とは私の潜在意識の中の記憶であり、その記憶の反応だと

言われているのです。

その記憶の反応がこの私であり、自分は神の演技であり、実際には思考

も感情も、知覚も、行為もしておらず、私とはスクリーンの映像の人物

なのだというのです。


本当の私とは、この記憶の私を思考なく観照している鏡である私なのに、

この記憶の私と一体化して自分が起こっている出来事に反応している私だ

と錯覚しているのです。と・・私は起こっている出来事に反応している

記憶の私を観照しているのですと。


真の私とはこの既知なる私にとっては未知なる私であって、それは多く

の方々の一瞥体験として意識される未知なる私の事でありましょう。

本当の私とはこの既知なる私にとっては一瞥体験で邂逅される私なの

でありましょうか。

ではこの記憶であり既知である私とは誰でしょうか?

・・・久保栄治には答えることは出来ませんが、ラーマクリシュナは

それは至高なる神の演技である。この私ではない私、即ち自我とは

神が演じておられる神の演技だと言うのです。神が行為していると・・。

神が私やあなたの自我として思考し、欲望し、感じて、行為している

のだと仰るのです。思考し、感じ、行為している私、この私、この

ワル賢い自我は起こっている出来事に条件反応している記憶の私であり

、その私とは神の演技だといわれるのです。


それは目の前に美女が突然現れてホテルに行こうと誘われる様な場合、

そこで「いやいけない。わたしには妻子も家庭もあるのだから」「据え膳

食わぬは武士の恥」などといろんな反応が記憶から起こることでしょう・・



その起こっている出来事、失敗や成功、不運や幸運などに対して反応し

ている私、内面に起こっている欲望や暴力や恐怖などに対して条件付

けられて反応しているのが、脳からの記憶の私でありましょう。

そして、この記憶の私こそが、神がお使いになっておられる自我、即ち

神の演技であることでしょうか。


この内面や外面の起こっている思考や感情や出来事に対しての即座の反応、

これをホ・オポノポノでは潜在意識にある記憶の反応であると言っています。

その反応こそ私達の潜在意識の記憶からの反応であり、その反応に対して

魂からの私は非難したり、評価したり、逃避したり、一体化したりせず

一緒にいてあげて愛と感謝を捧げることが求められるのでありましょう。


そしてこの魂からの私こそが、生きていることの責任を持ち、未知なる真

の私に戻り、真我と再結合する為に一生懸命努力しなければならない私な

のです。

この魂からの私が自分の内奥にある至高の真我を自己想起しなければなら

ないのでありましょう。記憶の私と一体化するのではなくて、目を自身の

内奥の内なる神に向けなければならない

と言われているのです。



この魂からの私こそが肉体に入り脳と結合し、記憶と一体化していて目

覚めていなくても一生懸命頑張って真我を自己想起しなければならない

私、魂と繋がる私即ち霊魂の私なのです。

記憶と一体化して「なろう」とするのではなく「在る」「私は在る」

という至高の実在に目を向け帰依しなければならないのでありましょう。


この私は必然という運命の中を生きて、そして起こっている思考や感情や

欲望に対して反応するエゴと一体化してエゴに染まっていますが、この私

はそれら記憶・反応ではありません。私達は潜在意識にある記憶でもなく、

その反応・エゴでもありません。私達は魂に繋がる「真理の種子」なのです。

私達の内奥には神・真我が輝いているのです。だから思考と一体化して

時間の罠にはまりなろうとするのではなくて既に「在る」ことに目を

向けるのですとクリシュナムルティーは言います。



必然的に起こっている出来事、そしてそれに対する条件反応、それらの幸せや

不幸な出来事や起こることの全ては受け容れるも受け容れないもないのです。



内面で起こる恐怖や怒りや嫉妬心や行為、エゴの反応、即ち記憶の反応も受

け容れるも受け容れないもないのです。必ず脳の反応、記憶の反応は起こ

るからです。

同じように私達が入った肉体はプログラムにしたがって生まれそして

必ず死ぬのです。


それらは脳のシステムとして起こっているのですから・・・。

起こっている出来事は勿論のこと、それに対する反応である思考や行為も

それは私に関係なく条件付けられている脳からの記憶の反応なので誰

にでも否応なしに自動的におこっているからです。



それは癌がある日、突然に発見されるようなものです。それに対し

即座に起こる潜在意識の記憶の反応(絶望や焦燥、不安)に対して

私達がどのような態度をとるのかが最大の重要問題となるわけです。


その癌が発見されて引き起こされる記憶エゴからの条件反応に対して

逃避することなく「その記憶からの条件反応」を非難や判断なしに暖か

く包み込んで愛することが魂に繋がっている私の勤めなのだと教えられ

ています。


これが肉体に結合した私達の仕事なのではないでしょうか。


これは又、心の中に沸き起こる恐怖心や、欲望、イライラや不安や怒

りに対して反応し非難している記憶・自我を暖かく愛すると言うこと。


その必然的に起こっている内面の思考や感情に対しての反応こそが私たちが

愛を与えなくてはいけない相手なのではないでしょうか。起こっている

恐怖や不安や欲望に対して蓋をしたり、避けたり改善しようと何かをし

たりして恐怖や不安や暴力や欲望に対して強制するのではなく、一緒に

いて一緒に苦しみ一緒に痛みを分かち合うのです。彼に耳を傾けるのです。と


ですが現状では私達は記憶である既知の私と一体化してしまっています。

この既知の私とは思考の反応であり、一体化している私が真の私である未知

なる私の一瞥体験を経てその意識が顕在化しない限りは、私は目覚めていません。


人類が感じている私という意識は本当は意識ではなくて頭脳から生じた

思考であり、それは記憶の反応であるのだと思われます。

・・私達は記憶と一体化しているのです。


私達はその意識ではない思考の反応である思考を自分の意識だと勘違いし

その思考の奴隷となっていて、決して自由ではないのに私達は意識があ

り自由だと勘違いしていますと言われるのです。



私達は目覚めないままに肉体に入り、そして眠ったまま条件付けられて

いる脳と結合したので、脳内に起こる電気信号や化学反応である思考や

感情、そして脳内に起こっている五感、知覚、認識・・それは対象世界

のことですが・・それを自分だと錯覚してしまっているのですと。

この対象世界は神聖なるマーヤ、私という観念の投影している映像です

「三界は唯心の所現」なのですと。


私達の内面に顕れる思考や感情そして私という分離した自己感覚、

それらは私ではなくて単なる脳内に起こっている化学反応であり

電気信号なのですが私達人類全員が目覚めていないので共同幻想に

陥っているのだと教えておられます。


この条件付けられている脳の知覚や認識、そして記憶が世界人類

共通して知覚認識する世界として認識されているのでありましょうか。


この私達が知覚している世界は脳が知覚する脳内の知覚なのです。そし

て誰もそれを疑うことがないのです。

そして

その事実を知って意識が目覚めた人は精神病院に収容されてしまうのです。



注:此処で言う私とは四つあり、私達はこの四つの私で構成されており
  それらの私は複合し混合しています。
  私達の意識にはこれらの私が区別されることなく構成されています。

  ①肉体/脳の私。
   起こっている出来事に自己同一化した結果生じたカルマによる肉体
   及び脳の状態と機能。それらの必然的に起こっている出来事及び思
   考や行為、感情や感覚の知覚、認識の私。神の演技。神の映像の私。
   自分には自由があって、自分が思考し、自分が行為していると錯覚
   している私のこと。

  ②この脳からの記憶としての反応・エゴ・自我・人格の私。
   この記憶とは肉体の脳だけではなくて潜在意識にある記憶も含まれる。
       肉体と一緒に形成されている思考体、感情体、アストラル体、メンタル体。
   この身体は肉体の死後も生き残るが転生はしない。

  ③魂からの私。肉体に記憶サムスカーラ・カルマに結合した私。鏡の私。
   (いまだ目が覚めず眠っている観照者の私。霊的身体の私、未形成
    のサイコノエティック体、輪廻転生している私) 

  ④未知なるたましいの私、霊魂の私。時空や自他を超越している私。
   これ以上の真我に関しては経験していないので久保栄治は全く分
   からないです。