私たちの内面から「私」として現れ出でるもの、それは自我です。
自我が現れ出でる源、それが真我です。
自我とは「私」という想念のことです。
精妙な姿としての自我は、一つの想念として存在し続けますが、
粗大な面における自我は、心と感覚と身体を含みます。
深い眠りに入ると、それらは自我と共に消え去りますが、真我は
存在し続けます。それと同じ事が死においても起こるのです。
自我はそれ自身によって創造されたり破壊されたりするような、
真我から独立した実体ではありません。
それは真我の道具として
機能し、周期的にその機能を止めます。つまり、それは現れて
は消え去るのです。これが誕生と死と見なされるものです。
名前や形を知覚するのは、あなたが自我と身体を同一視し
ているからです。
夢の中で、自我がそれ自身を微細身と同一視すると、知覚
も精妙なものとなります。
しかし深い眠りの中にはなんの知覚もありません。
それでも、そこには自我は存在していなかったでしょうか?
いいえ、存在していたのです。
さもなければ、眠っていたという記憶さえも存在しえなかっ
たでしょう。
眠っていたのは誰でしょうか?
あなたは眠りの中で「私は眠っている」とは言いませんでした。
あなたがそういうのは目覚めの状態である今このときです。
ですから、自我は目覚め、夢見、眠りの全てに於いて存在して
いたのです。
これらの状態の根底に在る実在を見いだしなさい。その実在の
境地の中には、ただ「存在」だけが在ります。そこにはあなたも
私も彼もなく、現在も過去も、未来もありません。
それは時間と空間を超え、あらゆる表現を超え、常に存在してい
るのです。
〈途中省略〉
もし私達が自分を自我として見なせば自我となり、もし自分を心
として見なせば、私たちは心となります。
もし自分を身体として見なせば、私達は身体となるのです。
様々な形で私達を包み込む心の鞘を作り出すのは想念です。
水面に映る形は揺らいでいるように見えます。影の揺らぎを
止めることが出来るでしょうか?
もし揺らぎが止まれば、あなたは水に気づくことなく光だけ
を見ることでしょう。
同じように
自我とその活動に注意を払うことをやめ、只その背後にある
光だけを見なさい。
人は真っ直ぐに「見る者」を見ることによって
真我を実現しなければならないのです。
ラマナ・マハリシ
私の感想
上記のラマナ・マハリシはレベルが高すぎてよく分からないのですが。
「「見る者」を見ることによって真我を実現しなければならないのです」・・
とは
具体的には怒りや葛藤やイライラや嫉妬や不安を
観察している
その怒りや恐怖の観察者のことを
見なさい!
思考や想念なしに
ただただその恐怖などを観察している観察者を凝視しなさい
恐怖や喜怒哀楽を観察している恐怖等の観察者のことを観照しなさい
ということなのでありましょうか?
その具体的な心理的な実践方法としては
①恐怖(思考またはエゴ・プライド)が起こっている
②その恐怖(思考またはエゴ・プライド)をじっと観察している観察者がいる
③その恐怖の観察者のことをただただ思考なく凝視しなさい
ということなのでありましょうか?
これはクリシュナムルティーの
「見るものは見られるものである」
「観察者は観察される者である」
「思考なくあるがままをあるがままに見なさい」
と同じでしょうか?