実際、私達が見ているのは自分自身なのです。

 

私達は決してジャッジしたり決して批判したりしては

 

なりません。

 

様々なステートの現れにいる人間を見るとき、実際に

 

私達が見ているのは自分自身なのです。

 

全ては私の内にあるのです・・エレブナ

 

 

 

 

私の感想

 

黒住宗忠は「立ち向かう人の心は鏡なり己が姿を移してや見ん」。

 

クリシュナムルティーは「見るものは見られるものである」。

 

ヒューレン博士は「普通は私達は相手や世の中を非難しますが

 

実際にはその非難している相手とは自分自身なのです」。

 

と多くの賢者は口を揃えて教えておられます。

 

このような真実を見ていることが出来るのは真の私の事に

 

気がついている「真の私」であることでありましょう。

 

 

この「真の私」が目覚めていない私達は、自分自身がどういう

 

状態にあるのかさっぱり分かりません。

 

 

「私達が見て非難している相手とは私自身の姿なのである」と

 

教えられています。

 

それに対して記憶・思考は口を揃えて「冗談じゃないよ、俺を苦しめ

 

ているあいつが何で俺だというんだい。あんたは頭がおかしいよ」と

 

言うことでありましょう。

 

けれども賢者達が示す事実とは

 

記憶・思考が「見ている眼」に被さっており、サングラスのように

 

サングラスを付けて見えている眼には見ている対象が全て黒いように

 

見えてしまっているのですというのです。

 

目に被さっているのです。目があるのに目で見ることが出来ないのは

 

思考が目に覆い被さっているからなのでしょう。    思考が

 

自分自身の姿を目の前の相手として見えてしまっているのですと。

 

思考というサングラスを付けて見ているので、サングラスが見るように

 

目には見えてしまっているのですと。

 

 

 

私達には私達の目を覆っているこのベールでしか見ることが

 

出来ません。私達が見ているのは内であれ外であれその私達

 

を覆うベールなのです。ベールが目を覆い尽くしているのです。

 

 

見ているのは目を覆うベールであり、そのベールが自分を目の前

 

に拡げて自分を世界や相手として見ているのですと。

 

ですから私が見ている世界とは私の目を覆っているベールの姿であり

 

そのベールを見ているものも、見られている世界もベールなのです。

 

その世界を見ているベールが「世界と分離していると思っている私」

 

であり、「私が世界を知覚しているので世界とは私が見ている対象であり

 

私と世界は別であり、私は世界の中の小さな歯車だ」と言うのです。

 

 

そしてそのベールというのは過去の人類全体のイメージ・記憶・エゴです。

 

その全人類の過去のイメージが、記憶が、エゴが自分自身を相手に投影し

 

て「あいつは悪い奴だ!」と自分を外部の対象として見ているのです。

 

 

それが

 

クリシュナムルティーのいう「見るものは見られるものである」

 

ということなのでありましょうか。

 

 

 

 

このベールが目を覆ってしまっていることに私達は気がつかないので

 

私達の目に映っている相手とは自分の目を覆っているベールであるこ

 

とに気がつくことがありません。

 

もしそのベールという思考・記憶・エゴが取り祓われたら、本当の

 

現実である「全て一切は神であること」、「全ては私の中に在り、

 

私の中に全てが在る」「全ては完全完璧である」ということが

 

見えていると教えられております。

 

 

 

 

私達は思考や記憶に完全に覆い尽くされていて、その事実に気が

 

つくことがないので、この黒住宗忠の言っておられることに対して

 

「それは無理だ!神の人や悟った方々にはそれが分かるでしょうし

 

実践できるだろうが私達には無理だよ・・悟ったらそう見え

 

るのだろうが」と言っているのです。

 

 

そういうことで悟っていても悟っていなくても、真実とは

 

「相手とは自分自身である」ことでしょう。

 

 

それなのに私達は記憶・思考・エゴに覆われているので相手

 

を評価し、非難し、軽蔑するのです。そして相手を非難し軽

 

蔑することで自分を非難し軽蔑しているのだというのです。

 

 

これらの賢者達のおしえは、私達人類の知覚では到底考えられ

 

ないことでしょう・・というのも私達の知覚認識とは私達の目を覆う

 

ベール(思考)の知覚認識だからでありましょうから。

 

 

「その賢者達の言っていることはあまりにも現実離れしているよ」

 

と、その様に言っているのはこの私達の目を覆っているベールであ

 

る記憶・思考・自我が話していることに私達は気がつきません。

 

「そう思うことは人類には出来ないよ、無理だよ」といっているのが

 

目を覆う思考であることに気がつかないのです。

 

 

私達が見て非難している相手とは私達であるそのベール自体の

 

姿であることを理解することは思考には出来ないのです。

 

 

私達が見て非難しているのは、自分を相手としてみている思考

 

即ち私達を覆い尽くしているベールであるというのです。

 

 

思考である私は、私が非難する目の前の相手とは

 

見ている私自身の姿であることを理解することがありません。

 

 

そしてそれをそのように見ることは私達人類には不可能

 

だとそのベール・サングラス・思考が言うのです。

 

それは当然そうでありましょう。

 

その様に相手を自分ではないといっているのは私の目を

 

覆い包んでいる思考というベール・サングラスなのですから。

 

 

思考には見られている相手とは見ている思考であることが

 

全く分からないのでありますし、自分に見ることは出来な

 

い「ヒューレン博士のようには出来ないよ」というのです。

 

 

 

しかし、もしそのベール(思考・記憶)が目からが取り祓わ

 

れたら(思考が停止したら)その思考というベールが取り

 

祓われた目には全て一切の全てが光り輝く完全完璧な神の

 

姿を見ることでありましょう。