思考が理解出来て知ることが出来るのは思考だけであることを
思考は知らない。
思考が知った回答や事実とは思考の姿であることだろう。
そしてそれは思考の範疇内に過ぎない。
思考には現象界を理解出来ないのに、思考は思考によってすべてを
理解できると錯覚している・・・それはまことに以て思考の傲慢に
他ならない。
「思考には知ることが出来ない」と言うことを知ることがスタート
である。と教えられている。
思考が探求して思考が理解した真実や回答や真理とは真実でもなく
真理ではない。それは条件付けられている思考に過ぎない。
何故ならば思考が探求し、追求し、見いだした答えとは、単なる
思考であり、その思考の探求による「真実?」とはそれは思考自
身の姿に他ならないからだ。
現象の真の真実を知るためには、また私を知るためには、思考に
よっては現象を理解することも、私を知ることも出来ないと
いうことを思考は知ることがないことであろう。
思考による探求や、思考の理論によって得た「満足した回答」
とは、それは思考の姿であって、真実や実相では全くない。
思考による思考の回答とは思考の姿であり、それは現実でも
真実でも、真理でもない。思考には現象を知ることも私を知る
事もないのである。
思考による探求の回答とは、思考が満足している嘘の回答である。
思考による質問の回答とは、思考が満足する虚偽に他ならない。
質問自体が思考の働きであることを思考は知らない。
思考による質問や探求自体それ自体が思考の動きだから
である。思考が得た理解した回答とは思考であり、それは虚偽である。
思考の私は私を知らないし、私を知ることもないと云うことを知らない。
思考は私を知らないし、知ることはないということを知らない。
それゆえに私達は思考から静かに離れようではないか。思考との
同一化を停止しようではないか。判断や評価を停止しようではないか。
●内と外で起こっている事にツベコベ言わないですべてを感謝して
受け容れよう。
●内と外で起こっている事に記憶である思考で反応することをスト
ップしよう。思考との同一化をストップしよう。
即ち、
●内と外の起こっている事に対して判断したり、評価したり
正しい正しくない、敵や味方、良い悪いと言ったり、逃げた
り、同一化したり、戦うこと等をストップして内と外に起こ
っている思考や感情のすべてにありがとうございますと愛と
感謝を捧げよう。
●内側に起こっている恐怖や暴力、利己心、憎悪、自己関心、エゴ
に対して愛しているよと愛を捧げ感謝しよう。