一切衆生悉有仏性・・涅槃経・大乗仏教


私の感想

この仏陀が述べられたことを多くの究極の教えは

同じように述べられています。


ラーマクリシュナも根源の実在(神)と融合合体して、

その神の目から見たこの究極の真実を以下の様に述べてお

られます。

ラーマクリシュナは以下の様に述べています。

「この「私」・自我とは、あのお方(神)自身が置いておかれた

のです。この自我・私とは、あのお方の遊び、あのお方の遊技です。」


「私という意識があるあいだは、どうしても相対界(転変の世界)

を棄てることは出来ません。これではない、これではない、と否

定を重ね、瞑想のヨーガによって、人は実体・ブラフマンに到達

することが出来るのです」


「世界は、あのお方そのもので満ちあふれています。」


「見るもののすべては、あのお方自身がなっておられます。」

「その中のどれを捨て、どれを受け入れたらいいのかと、決

めることなどは出来ません。」

 

 「あのお方(神)ご自身がすべてなのです。」

「神は自らの生きもの、宇宙、それらすべてになられたのです。」


「完全なる神の叡智を持つようになれば、そのときには、その

 ように知り、認識します。

 あのお方が、思考機能、統覚機能、(器官を伴った)身体-

 二十四の宇宙原理すべてになっておられるのです。」


「しかしながら肉体意識(私は肉体だという実感)が消えな

い限りは、この究極の真理を知ることは出来ません。」


「神を見ないまでは、我執はなくなりません、もし誰かが自

我意識がなくなっていたのなら、その人は間違いなく見神し

たのです。」


「(自我意識がなくなっているのなら)神のみが行為者であ

って全ての全ては非行為者であることを知ります・・しかし

このことは、我の心の感覚器官によっては知ることは出来ま

せん。」


「私、私のもの・・それが無知です。」


「私は行為者である。私は妻、夫、子供、財産、名声など、

私には名誉それらの全てがあるのだ、というそのような感

情は我の心即ち無知でなければ生じません。」


「私が行為しているのではない、行為は起こっている、

という明智(神の目から見た知覚認識)は無知(我の心)

という束縛から解放された覚者にとっての共通した認識です。」


「しかしこのことは、感覚器官や現在の我の心によっては

知ることは出来ません。世俗の執着のないその清浄なる心

によってしか(その真実)を知ることは出来ません。」


「神を見ない間はその我の心・我執はなくなりません」

「私、私のもの、それが我の心・無知(行為者)なのです」

「無知から解放されておらず悟ってもいないのに、私は行為

していない、私は思考していないと言うのならば、その人は

嘘をついているのです」


「(自分が行為しているという実感がある限りは)その

人・個我は自分の行為に責任があります(その行為の結果

を引き受けることになります。従って正しい行為や正しい

思考が求められます)」




注:その悟った方々の神の目には一切衆生悉有仏性と見え

ていることでありましょう。しかし無知から解放されてお

らず悟っていないのに、即ち神の目ではないのに「私は行

為していない」「私は思考していない」というのは嘘をつい

ています。その嘘をついている人のその私とは、私という観

念であり、その私という観念を使って神が現象界を演じて

おられると覚者達は教えておられるのでありましょう。