質問してはいけない・・ヒューレン博士
私の感想
この「質問してはいけない」とは
これは
思考してはいけない!
思考と同一化してはいけない!
と言われているのと同じでありましょう。
Kの「思考なく見よ」と同じだと思われます。
ホ・オポノポノでは
「ありがとうございます
愛しています
ごめんなさい
許して下さい」
と無心で
唱えるのですが
唱えるのは「記憶である思考」に対してであり
その思考に対して愛していると唱えることで
その念唱・言霊が潜在意識に届き
潜在意識から潜在意識の元にある魂と繋がる私
に「ありがとうございます」の言霊が届き
魂と繋がる私から→魂⇒「至高の実在」へと届けられ
て、恩寵により
この私達を覆っている(又は私である思考)が
祓われ浄化されると教えております。
この唱える際、思考を働かせることなく唱える
必要があるので
ありがとうございますと言うときには思考を使用し
たり思考を働かせてしまってはならないというので
あります。
審問したり考えたりすることにより、頭を使
い始め、思考の世界に引き込まれるのでいろいろと
質問したりすることは御法度なのであります。
で、ここでヒューレン博士が教えているように
ありがとうございますと唱える際に何故、色々
と考えたり、質問という形で思考を使ってはい
けないだろうか?ということですが、
それはこのありがとうございますと唱えているのは
誰なのであろうか?などと考えることで思考の中へ
と誘導されて思考の束縛の中に入ってしまうからで
ありましょう。
ですので考えることで思考の罠に嵌まることなく、
また誰がこれを唱えているのだろうかなどと思考
に入り込むことなくただありがとうございますと
唱えるのでありましょう。
①ありがとうございますと唱えているのは誰だろ
うか?という疑問とはその質問は思考から発生
しており、そのことを思考することで思考に巻
き込まれてしまうので、只々思考なく唱えるこ
とが一番大切となる。唱えるときは考えてはい
けない。「私は誰か?」の質問に対して思考が
回答するならば、それは全て誤った答えとなる。
「私は誰か?」の質問には私しか答えられない
ので、私ではない思考や記憶、人格には、その
質問には答えられないのであります。記憶である
人格の私が脱落するならば、始めからそこに在った
私が私だと答える事が出来るでありましょう。
②「私とは思考なので、ありがとうございますと
唱えているのは思考なのではないのか?」など
と考える思考に捉えられてしまってはいけない。
「私は思考ではなくて意識である」と自分を
信じて思考なく在り続けなさいと。そこでそれ
を聞いて思考は「思考なくあることは出来ない」
と言うのであるが、この現在意識で表面意識の
私とはほぼ記憶に包まれていても記憶だけで成
り立っているのではないので、ここで努力し
記憶という人格の私の意見に惑わされてはいけ
ない。
③この唱えることで「自分の願望を叶えて」ほしい
という願望、即ち思考に捕獲されてはいけない!
エゴの目的やその手段として「ありがとうござい
ます」と唱えるのではなくて、ただただ「ありが
とうございます」と無心で唱えるのであると。
欲望や願望の手先になって思考の奴隷に成り下がって
しまうことは最もありがとうございますと唱える
ホ・オポノポノの目的から離れて行くことである。
誕生や死、成功や失敗、病気健康は如何なることも
見逃さない「全能の意志」によって既に決定されて
いるのであり、そこに私達が関与することは出来な
い。
思考なく正しく言霊を唱えることとは、「思考なく
見る」「思考している者・思考者を思考なく見るこ
と」「思考なく在る」と同じなのではないでしょうか。
それは、思考それ自体又は思考者、思考の観察者
を思考なく見ること・・その思考を思考なく見る
ことが思考からの解放を齎すからなのではないで
しょうか。そしてそれによって秩序が齎されると
教えられております。
何故思考なく在る必要があるのでありましょうか?
それは思考こそが恐怖であり、自我であり、自他の分離
であり、私は意識であるのに自分は肉体だと錯覚してい
る虚偽であり、苦しみと悲しみとこの混乱の原因そのも
のであるからであります。
それゆえ私達は思考を払い浄まらなければならないの
です。
ホ・オポノポノの言っていること
これはクリシュナムルティーや禅宗の言う「思考する
思考者をただただ思考することなく見なさい」「思考
なく在りなさい」に似ています。
私達現代人は思考が全てで,思考で以て現象世界や全てを
理解出来ると思っているのですが、クリシュナムルティー
は思考を除外してただただ「思考の観察者を凝視しなさい」と
教えておられます。
思考は虚偽であり、私を覆い包み隠している我と汝の
分離だからです。
「思考を見つめる者は誰か、それは結局は思考なのでは
ないのか」「私には思考なく見る事など出来るはずがな
い、何故なら私は思考で記憶の反応だからだ」・・など
と一見すると正しく見える思考からの反応や思考に巻き
込まれることなく、又結果や目的やシステムのことなど
を理論的に思考することによって記憶を働かせてしまい
その結果、思考の奴隷になってしまうのではなくて、た
だただ、ただただ「思考しているものを見なさい」と仰
っておられる。ここが禅が哲学などとは異なるところ
であります。
そしてそれを継続的に実践することが思考からの自由を
齎すのではないでしょうか。