事物を変えようと心を砕かないようにしなさい。
時間と空間の内に偶発事はない!
如何なる事にも違わず、如何なるものも見逃さない
〈全能の意志〉によって
あらゆる出来事は定めれている!
・・・ミルダッド
私の感想
彼岸、超越意識から見ておられる方々はその彼岸の目
から此岸にいる私達に向かって語りかけておられます。
思考に塗れ、そして一体化している此岸にいる私にと
っては理解には遠く及ぶことが出来ないですが、あえ
て挑戦してみたいです。
此岸にいて二元性のまっただ中にいるこの私が推測す
るに、それは
”内側と外側、心の内面と外面のあらゆる出来事、
良い事も、良くないことも、失敗も成功も、健康
も病気も、生も死も、万物万象一切の全ての全て
の事に対して有り難く感謝し、そして全てを受け
入れ、それに対して愛の全てを捧げなさい。”
天地一切のものに感謝しなさいと仰っておられて
います。
それは起こっている事に対してではなく、起こるで
あろう事、既に起こってしまっている事に対しても
只々ありがとうございますと全てを受け入れ感謝し、
愛の全てを捧げることだ・・と。
私を非難せずに私を許し、私を受け入れ、私を愛し
、私に感謝し、私自身を育てる事が肝要だと。
そして、もし思考(私)が成長して思考・記憶・私が
脱落することが起こるのならば一切の全ては神であり、
全ては愛である実相がそこに顕現しているだろう・・
と言われております。キリストも言っております「死
ななければ神の国入ること能わず」と。またミルダッ
ドも「この私は幻想。神から分離したこの人格は新し
く開いた目の幻想。この幻想の自己は実体がなく現実
性もない。この私が生まれたのは人間がこの自己の死
を通じて、自ずからの本来の自己即ち神の自己を知る
ためである。この幻想の自己(私達日常生活での自己)
は外の目(五感の目)が眩まされ内なる目が輝かされる
ときに消え去る」と語っています。
この人格とはこれはホ・オポノポノでいう記憶のこと。
黒住宗忠のいう我の心、エレブナで言うエゴイズム、
シャンカラの言う私という観念。
起こっている思考と感情と行為の記憶のこと。
これに対してこれら条件付けられている脳と結合した
”私達である「新しく開いた魂の目」即ち意識”はこの
DNAからの必然性に基づいて起こっている思考と
感情と行為に同一化して混乱しているのであると。
クリシュナムルティーを始め黒住宗忠など多くの彼
岸にいるかたがたは、「思考を超えた意識・目」か
ら私達に向かってつねづね語りかけています。
そして彼岸の超意識から言われます。
貴方たち人間は思考ではなく意識なのであるから
「思考なく見なさい」
「心なく見なさい」
「私なく見なさい」と。
またミルダッドはこのように言います。
あなたがたの眼は、あまりにも多くのヴェールで覆
われている。
あなたがたが見るものはことごとくヴェ
ールでしかない。
それ自身ヴェールであり産着であるあ
なたがたの眼が、どうしてヴェールと産
着以外のところにあなたを導けようか?
ヴェールを貫くためには、旋毛とまぶたと眉で駱っ
た眼とは異なる眼が必要だ。
もし事物を正しく見たいのならば、
まず眼それ自身を正しく見るようにし
なさい。
眼を超えたあらゆる事物を見るためには、眼で見る
のではなく眼を通して見なければならない。
ここで非常に誰もが陥りやすい事態が発生します。
それは私達が真理を聞いて、私達がこのことを話すと
それは嘘をついてしまうことになってしまうというこ
とです。
悟っていない私が真理を話した場合、それは真理を
歪曲し、穢してしまうのです。真理は思考や情報で
はないので伝えたり、記録することが出来ないので
す。真理は語られず、沈黙の内に理解することが
興ると言われています。真理にならなければ真理を
知ることはないのです。真理は言葉や記憶ではない
からです。
私や牧師や弟子や伝道師が真理を話すとき、それは
真理ではなく、真理の誤解を話しているのです。
真理を穢しているのです。
前記の言葉を語っているのは彼岸にいる悟った方々の
思考を超えた超知覚認識の目からであり、それを聞いた
私達は此岸にいる迷える神の子羊なので、その言葉を
理解出来ないまま、この私のようにあたかも自分
の言葉のように話してしまっているのです。
ということですから私が話しているのは誤解なので
その辺をこのホームページを見ている方は充分に理解
して下さい。
この私は、魂と繋がっている私ではなくて私を覆
い隠している私・思考であると言うことなのです。
私は恐怖であり、暴力であり、欲望なのです。私は
自己ではなく、人間ではないのです。エレメンタル
なのです。
そう言うわけで今現在自分の事を私と考えている私
は、私ではなくて私を覆い隠している思考なのです。
未知なる本当の私が自分自身と一体化してしまっている
私とは思考です。思考とは「私という観念」なのであり、
それがこの私なのです。
そしてその私とは思考の記憶であり、思考とは恐怖で
あり、自他の分離であり、エゴであり、「我の心」で
あり、その思考は、即ち私は「自分が見ている相手と
は自分自身の姿である」ことを決して認識していません。
この私は理解している振りを演技するかもしれませ
ん。が、実際にはこの真理は思考(私)にとっては
理解することが出来ないのです。
またこの思考が見ている世界とは客観世界ではなくて
条件付けられている脳内世界であり、それは脳の主観
せかいであります。脳の条件付けに従った脳が見てい
る人類共通の全くの脳内世界であり、見ている私と
は脳である脳自身なのに自分自身を見られている
対象とは別にある私と幻想を生み出し「見る者と
見られるもの」に分割しています。見られる世界は
自分の内部に世界が有るのに内部を外部だと知覚して
います。・・それはこの私が天照大御神の御分心の
私ではなくて「我の私」だからです。
内部と外部を分割し、主体と客体に分割し、対象と
自分が異なると知覚しているので相手を非難して、
世界や相手を変えようとしています。それはこの私
が私ではなくて記憶であることを証明しています。
それが未知なる本当の私を覆い隠しているこの私。
毎日家庭生活を送り、貯金残高を気にし、病気に
苛まれ、株価に一喜一憂し、不安と恐怖で一杯で世
界情勢を心配しているこの私なのです。
相手や対象や世界とは内部の記憶なのにそれを理解
出来ないのは、その知覚している私とは思考だか
らです。
ミルダッドが超意識から実相を教えておられるよ
うに、この思考である私が、未知なる私を覆い包
んでいるのです。この私は私ではなくて私を覆い
隠している私、目に被っているベールなのです。
私達が生きている目的は、「真実の生」を生きる
為に私が死ぬこと、私が祓われることなのであり
ましょう。
「意識ではない記憶である私」即ち思考の私は、
すなわちこの私は「自分が行為して、自分が思考し
ていると錯覚しています」。が
実際には起こっている思考や行為とは、記憶による
思考や行為ではなくて、ミルダッドが言うように
「如何なるものをも見逃さない全能の意志」によ
ってあらゆる出来事は定められ、起こっているの
ですと教えておられるように、行為と思考と出来
事は「全能の意識」によって起こっておりそれを
記憶(即ちこの私)は自分が思考し行為している
と実感し疑うことがないのです。
実際にはその起こっている行為が「自分が行為し
ていると錯覚する思考」という行為者の私、この
「観念の私」「記憶の私」を生み出しているのであ
りましょう。それがこの私、エレメンタルの私なのです。
「神がこの全ての私を使って演じておられるのです」。
また実際にはその起こっている思考や感情や五感という
「条件付けられている脳が生み出している感覚の記憶」
が「自分は私だ」という自己意識を生み出して「自分
が行為している」「自分が思考している」「自分が感
じている」「自分が生きている」「自分の人生だ」と
錯覚し自分が思考者、行為者だと錯覚しているのです。
そしてこの脳と結合した未知なる本当の私は自分が思
考していると錯覚してしまうのですと教えられている
のであります。
ですからクリシュナムルティーは
「思考者はいない思考があるだけだ」
「行為者はいない行為があるだけだ」
「体験者は体験である」
「経験者は経験である」
という
条件付けられている脳が受信して発信している
これらの思考の私、この人生を生きているこの
私の実体を私達に教えておられるのではないで
しょうか。
本来の未知なる私はこの条件付けられている脳で
はなくてこの脳に結合している一霊四魂なのです
から決して、この条件付けられた脳からの思考と
一体化してはなりません!とその様に教えられ
ているのだと思われます。