・・弘法大師空海
私の感想
私は勿論、目が覚めていないので、自分が死んだ後どうなるのか
とはあくまで推論ですし、幽体や霊体の感覚はなくて自分は肉体
だと世間の人と同じように実感しています。
しかし、正しく思考を使って、
この私達は記憶に汚されていることを実感することが解放への
第一歩なのでありましょう。私達の現状・・それは私達が記憶
に汚染され、思考の奴隷になっているこの現実を正しく理解す
ること・・
私達は思考ではなく神の子の無限の意識であることを信じること。
正しい理性を使って正しく信仰(自己想起)すること。
それが幽体や霊体を正しく再形成し、自他の分離の無い、そして内部
と外部の分離の無い正しく見ることのできる目を養う道だと
確信しています。
弘法大師は
「人々は目覚めていないので
目覚めないまま生まれて
目覚めないまま死んでいく
そして肉体を脱ぎ捨て死んで死後の世界に移行しても
この世と同じくあの世でも目覚めていないので
自分を肉体だと思っている記憶(我の心)に染まって
おり、自分が物質界で生きていると思い込んでいて、
それは丁度夢の中の体験のように、記憶が作り出
した幻想世界を生きている」というのです。
従って霊界通信やあの世の意識体と交信しても更に
一層深く迷妄に即ち我の心である錯覚に囚われるので
ありましょう。
私達たましいの私・鏡は記憶という思考に混濁して支
配されているこの現状は死後の世界でも同じで鏡である
のに自分を知ることはありません。思考に染まっています。
ですので思考が見るように他者を外部に見て他者を非難し
、変えようとし、自分は肉体ではないのに、肉体を自分だ
と錯覚して肉体の五感覚を自分の感覚だと錯覚しています。
それは私達鏡が思考と完全に一体化してしまい、記憶が見
るように、自他を分離して見てしまい、外部は内部なのに
対象を知覚し、肉体や思考や感情や行為を記憶がするように
私達もしてしまっているのです。
そして
肉体を捨てたあの世にいる私達も、この世で目が醒めな
かったように、幽界や冥界でも目が覚めることなく、
我の心に覆われたまま、記憶の世界で自分は肉体だと
思って生きているのです。
そういうことなので死後も幽体や霊体は未形成のまま
、機能しておらず幽体や霊体の目は目覚めていないの
ですと。
弘法大師が教えておられるように
私達はこの世でもあの世でも目覚めていないと言うこと
であります、それは記憶という我の心に支配されている
からでありましょう。
私達は神の子であり鏡なのに、我の心に染まり混濁して
見ること、思うこと、感じる事、行うことの全ては我の心
によって支配されていることを心の底から実感し理解し
ているとき・・・変革が始まるのでありましょう。
即ち私達である黒住宗忠のいう天照大御神の御分心が
我の心(記憶)によって包まれ混濁してしまっているのです。
天の心(幽体・霊体・川面凡児の言う四魂、エレブナの言う
サイコノエティック体)が形成されておらず、その諸体
として見ることも、聞くことも行為することも出来ないと
いうのです。
即ち私達は目覚めていないので我の心に占領され、神の子
である自分の心を使うことが出来ないのでありましょう。
サイコノエティック体(幽体や霊体/四魂)があるのに
それを使う事が出来ないのです。
自分は心を使っていると思っていますが、実際には自分の心
だと思っている心とは自分を包んでいる「我の心」でありま
しょう。
私達は我の心(記憶)によって支配されているので、
自分の心を使えるほど進歩しておりません。
幽体や霊体という天の心が育っていないので幽体や
霊体を使用できないのです。
この世にいても、死んであの世にいても、私達は記憶に
よって支配され続け、「自分は肉体だ」という観念で
雁字搦めの奴隷となっており、生涯、目覚めることな
く、この世でもあの世でも幽体や霊体を使用すること
が出来ないのでありましょう。
私達は黒住宗忠のいう天照大御神の御分心であり、神の子であり
川面凡児が言うようにハート中心と頭頂にあって時間と空間を
超えて拡がる霊(直霊・直日)であるのにもかかわらず、
記憶に包まれているので、肉体を離れても、この世にいるときと
全く同じように潜在意識の記憶の中で「自分は肉体だ」と思い込
んでおり、決して自分自身であるこの時空を超えた「一霊」に目
覚めることなく、錯覚の中で死後の世界で生きているのでありま
しょう。
恩寵により死後の世界では私達は若返っており、病気もありません
が、私達は肉体の死後、幽界や冥界で魂の目はおろか幽体や
霊体の目も開かれず、幽体や霊体を使用することもなく、眠っ
たまま、記憶を自分だと錯覚したまま又この世に生まれ変わっ
てくるのでありましょう。
「私は肉体であり、他と分離している」と錯覚する記憶と一体化し
たまま・・・。