真理を真理と見よ
・・クリシュナムルティー
私の感想
以下は久保栄治という拙い未熟な求道者の独り言です。
①虚偽を虚偽と見るとは?
虚偽とは思考の事でありましょう。
虚偽とは私なのでありましょうか。
覚者の目から見た場合、わたしとは嘘なのです。
覚者の目からは私達とは天照大御神の御分心で
あり、その鏡を私という観念即ち記憶が覆い包
んでいるのでしょう。
そしてその記憶というものが名前の付いている
人格の私であることでしょう。
その記憶である人格の私とは覚者から見た場合は
私を覆い包んでいる「私ではない私」であり、そ
の人格の私とは、私を詐称する虚偽の私でありま
すが、その記憶の私から見た場合は記憶の私が私
なのです。
が、しかし
現在の私達は賢者の目は開いておらず記憶の思考
でしか知覚できないのですから
この虚偽を虚偽とは見れないことでしょう。
この記憶である人格の私が見ている対象は悉くが
人格の私そのものの姿であることでありましょう
が、それは人格の私には相手と見えるのです。
その鏡を覆い尽くしている記憶である思考の私
である「私という観念」である私達・人格には
「自分は私」だと確信しているので、自分自身を
記憶の反応だとは思ったりすることはないことで
ありましょう。「私は肉体だ」と思っていること
でありましょうし、実際是を書いているのはこの
人格の私という記憶の反応なのであります。
この是を書いている私は天照大御神の御分心で
ある私ではなく、四魂と言われている霊的知覚を
もった諸体の私でもなく、条件付けられた脳が
受信した記憶の蓄積、記憶の反応の私、即ち人格
の私であります。
しかしながら、この記憶の私さえも「至高の実在」
が使用して演じていると覚者は言います。
この私という自覚、自と他の分離の知覚認識とは
脳が生み出している記憶でありその反応であり
それは賢者から見れば真実の私ではなく虚偽なの
だということです。
その高次の目から見た場合には
私は脳が生み出した嘘なのです。この現在、自分自身だと
自分の事を実感している私とは本当は非実在なのですと
賢者は仰います。
実際には至高の実在しかいないのに
「私がいて、他人がいて、私が世界を見ている」という
錯覚を心(記憶)がしているのです。
そしてその記憶とはこの人格の久保栄治です。
この根源的虚偽は至高の実在からのチッタ(心)
アハンカーラ(私という観念)として流出して
いるのであるといわれております。
実際には私も他者もいなくて、至高の実在だけが
いるのでありましょう。生きているのは大生命で
あり神が万物を生きているのに、その神から私と
いう観念が発生し、私という錯覚・虚偽がうまれ
、それが私達であり、この私達である人類は求め且
つ殺し合っているのですと。
このチッタ(心)は三界を形成し「三界は唯心」
と言われています。
あなたが私を殺すのではなくて。そのあなたとは私の
姿であり、その私とは黒住宗忠の言う「我の心」即ち
私という観念なのですと。「我の心」が私であり、あな
たであり天照大御神の御分心を隠しているのですと賢
者は言います。
しかし凡人の私達は全くそれが分かりません。
その私という観念から思考が発生し、思考が記憶として
その記憶が私・人格として自分を知覚認識し、自分を
他者の鏡に相手として認識しているというのです。
・・これが条件付けられている脳から形成された人格
の私ですと。
(しかし諸体の私とはこの人格の私ではありません)
是がクリシュナムルティーのいう「虚偽を虚偽と見
ること」でありましょう。
②虚偽の中に真理を見よ
虚偽を虚偽として見ている中に真理が見えてきますと。
その虚偽を虚偽と見えているのは賢者達の知覚であり、
それは魂の目(永遠のパーソナリティーである目、そ
の目は思考ではない意識の目)であることでありましょう。
この自分を私と思っている私達の私・・それはこの
虚偽、この虚偽とは人格の私の事。
その人格の私とは神の演技であるからですと。
その開かれた愛と叡智の目からすれば
実は悪人も善人も、殺す者も、殺される者も神なのです。
私もあなたも本当は存在しておらず神だけがいるのです。
私もあなたも神の演技だったのですと。
神がこの心・思考・脳を使いマインドとして三界・現象界を
顕して演技しているのですと。
私もあなたも神の映像であり、神の演技なのですと。
是を実際に見るとき、真理が顕現します。・・・と開かれた
魂の目は言います。
③真理を真理と見ること
この虚偽の中に真理を見ている神の目が出現した
ときには、
私もあなたも存在しておらず
至高の実在・神だけが存在している実相が
顕現しますと。
是が黒住宗忠のいう天照大御神の御分心の目から
見た実相でありましょうか。
さらに賢者達は言います。
その真相を見るためには
「わたしを、あなたを愛すること」ですと。
「汝の敵を愛すること」です。
汝の敵とは思考であり「思考を愛すること」
「思考という虚偽に愛を注ぐこと」
「一切の全てを感謝して受け入れること」
「全てを愛し、生死を受容すること」ですと。
即ち
私の身をその敵(虚偽)に捧げて、私がその敵(虚偽)
になる事・・・これが愛なのではないでしょうか
全ての全てを
善きことも善くないことも
生も死も、あらゆる事を感謝して受け入れ愛することが
この私達というマインド・思考に求められているのでは
ないでしょうか。
なぜなら本当は
この分離した私は存在しておらず、至高の実在、大生命、
神だけが生きておられるからです
神が生死を使って私やあなたとして演じておられるのですと。
その演技しているのはアハンカーラ・心・思考・記憶です。
記憶がこの私・人格なのです。
賢者は言います。
神のみが実は存在しているのです。
神がチッタとアハンカーラを使って、三界を演じておら
れるのです。と
何故ならば、そのチッタもアハンカーラも至高の実在の
化身だからですと。
実際の所は私もあなたもいないのです。私は無
なのです。
本当は神・至高の実在だけが実在しているのですと。
そのようにクリシュナムルティーは仰っておられる
のでありましょうか?
上記のこれは私の実感ではなくて、あくまで理論
上の結論です。・・念のため。