・・クリシュナムルティー
私の感想
A:観察者をただただ見るとはどういうことなのか?
B:観察者を見るとどういうことになるのか?
C:観察者とはいったい何のことなのか?
A:の観察者を見ているという意識状態とは「思考なく
見ている意識状態」なので、このAの意識状態では
脳が眠っていても、意識は活動している。この観
察者を見ている意識状態とは第四の意識状態(ト
ゥーリヤ)と呼ばれていて、その超意識では全て
は神であり、愛であり、私の中に万物が有り、万
物の中に私がいるという、全てを生かしあらしめ
ているいのちそのものの意識であると言われてい
ます。
B:の観察者を見ているとどうなるのか?とは、この
質問をしている私自身が「私という観念」であるので
、そのときにはこの「私という観念」は祓われて自由
となっているので第四の意識という「たましいの目」
が顕現し、高次の正しい知覚が顕現しているといわ
れております。
この観察者を観照している意識には今の人類とは全く
異なる高次知覚が顕現していると言われております。
その高次の知覚状態にあるとき内と外、私とあなた
は分離しておらず、私と万物が一つである状態「私の
中に万物・世界が有り」「万物の中に私が在る」とい
う真実の世界が顕現しているというのであります。
そしてその結果として脳は変換し肉体以外の諸体の目
も開いて、天と繋がって高次意識の媒体となり、秩序
が内と外にあられていることだろうと推測されます。
C:の「観察者とは何のことだろうか?」Cに関しては、
どうしても古代インドのサンスクリットの用語がいま
のところ意識に関しては他の言語よりは、よりハッキ
リと分類して使用しているので、その用語を使用す
ればアハンカーラのことだと思われます。それはシャ
ンカラのいう私という観念=根本無明=自己自我=
神のマーヤのことであり、個人の潜在意識を覆い尽
くし、地球をり囲んでいる「想念帯」のことだと推
測しています。
この根本自我性・根本無明をクリシュナムルティーや
ホ・オポノポノでは記憶・思考と呼んでいますが、正
確には記憶や思考そのものではなくて記憶や思考と
言われている脳が受信している「低位記憶」「低位思
考」ともいうべき私という観念・根本無明からの思考
でありその記憶のことであると思われます。
ここではクリシュナムルティーやホ・オポノポノ
と同じようにこのアハンカーラという根本我性の記
憶のことを記憶という言葉を使用したいとおもいます。
しかしながら思考には、再形成された高次諸体から
の高次思考もあります。そしてその対極にあるのが
私達が知っている私という観念から流出している低
次思考です。そのように思考とは純粋な科学的思考、
数学的な思考も思考なのですが、一般的な意味合い
での思考と言う場合、それは私という観念・エゴか
ら発出している思考という意味合いで思考を使わせ
ていただきたいとおもいます。
即ちここでは思考のマイナス側面を思考と呼称し使
用したいと思います。何故なら思考は自他に分離し
分割し、内部と外部を区別し、私と世界を分離させ
ているからです。
さてこの「観察者を見ること③」の解説の
その前に①と②の前提の説明が必要になる
のではないかと思い解説を試みました。
①内と外に必然に基づき起こっていること
内と外に必然的に起こっていることとは,条件つけ
られている脳が受信した化学信号や化学物質のこと。
肉体脳と結合した私達未発達な「一霊四魂の混合体」
はこの「必然性」からの起こっている事に直面して
おります。
しかしそこに私達とその「必然性」からの内と外の
起こっている事に間に「記憶」が入って活動し、私達
はその「記憶」を自分自身と取り違えてしまっている
のでありましょう。
その「必然性」すなわち神聖なる「カルマ」とは、
外部の起こっている出来事だけではなくて、内
部に起こっている考え、感情、思い、決断、判断
欲望、知覚、感覚、出来事、出会い、映像、衝動
失敗成功、民族、健康病気、愛と哀しみ、平和と暴
力、良い事と悪いこと、恐怖、希望、絶望、憎悪、
痛み、殺人、戦争、行為、結婚、離婚、家族、脳の
状態、疾病や才能、その逆の不具・障害、老化、幸
運や悲運etcとは、私達の願いや求めにも関わらず
「必然」に基づき起こるべくして起こっております。
行為だけではなくて、沸き起こる暴力や恐怖や
嫉妬や怒りや不安や選択や意志さえも起こるべ
くして起こっていると思われます。
(最新の大脳生理学が言うように行為が先に起こり
その後、脳からの情報が【肉体に入った認識知覚主体】
に情報が届くのですが、脳は時間感覚をコントロー
ルしてその順序を逆転させて、先ず始めに意志が起こり
そしてその後に行為が後に起こったように錯覚させてい
るというのです。
実体ではまず始めに脳が命令されて行為が起こり、その
のち、記憶からの自分の意志で行為したという「感覚」
が発生し、それが肉体に入り脳と結合している私達
(一霊四魂)に届きますが、この私達は脳と一体化し
且つこのマーヤに覆われていて目覚めていないので私達
は自分の自由意志で自分が行為したと錯覚することにより
その結果として私達は行為のカルマに 束縛されていく
のではないでしょうか。)
②それに対しての観察者からの反応
この必然に基づいて起こっている内外の出来事、
これに対しての観察者(記憶)からの反応が
思考として、上記の起こっている事に瞬時に
いつも絶えず行われています。記憶の反応はテレ
ビを見ている時も人と話しているときも夢を
見ている時も行われるのだと。
ここで言う観察者とは、この必然として起こ
っている外部や内部の起こっている事に対し
ての反応している記憶のことであります。
即ち観察者とは脳と結合している私達を覆っ
ている記憶のこと。即ち起こっている事に
対してああだこうだと「思考する私」のこと。
「思考である私」の事であろうかと思われます。
恐怖がやってきたとき、その恐怖に対して
即座に知覚反応し恐怖から逃げようとし、
恐怖を観察している私とはこの記憶のこと
であると。これを観察者と呼んでいるので
あろうかと思われます。
この観察者は「私は自分で思っている」と思っ
ているのですが
その私とは記憶なのでありましょう。この起こっ
ている事に反応している私とは思考アハンカー
ラなのでありましょう。
そしてそのアハンカーラの本質が恐怖だと言
うのです。
即ち、私観察者とは思考なのであり、思考は
「私は思考なので思考なく見ることはできな
い」と思っており、思考が自分とは肉体であ
ると思っています。
自分を肉体だと確信している私は、私ではない
記憶なのでありましょう。
自他を分離して見ていると言うことからしても
分かるように、それは思考を超えている「気づ
き」ではなくて思考であることを証明している
と思われます。
記憶そのものが観察者なのであり思考なので
ありましょう。
思考が私を詐称していて、思考でもって思考を
観察しているのでありましょう。
この内と外に起こっている事に対して記憶
からの反応・思考が即座に起こっています。
見ること、聞くこと、話すこと、行うこと
考えていること、感じていることのすべて
はこの思考という観察者が行っていますと。
自我エゴの観察者とは即ち思考・エゴなの
であると。
思考が自分を対象として知覚しているに過
ぎないのだと思われます。
この記憶からの反応(観察者)は寝ても覚
めても、夢の中でも、夢を見ていないとき
でも一瞬も休みもなく活動していて、トイ
レにいるときも、テレビを見ているときも
仕事をしているときも、大自然をみている
ときも、人と話をしているときもこの観察
者・記憶は四六時中休みなく活動している。
・・と思われます。
この記憶の反応が観察者、考えている私で
あるのではないでしょうか。
そして
私達はこの起こっている出来事に対して即
座に反応している記憶思考とまったく自分
を同一化してしまい記憶思考に完全に支配
されてしまっているのでありましょう。
何故支配されているのかと言えば
それは私達は眠っていて目が覚めていない
から・・
私達の諸体であるサイコノエティック体が
形成されておらず、魂の目はおろか諸体の目
も閉じられたままであるからでしょうか。
私達はこの与えられた肉眼だけを自分の目だと
思い込んでおり他の目があることを知らない
まま人生を過ごしています。
通常の生活ではこの記憶の反応に同一化して
しまっていることに気がつくことはないし、
私達の人生とは記憶思考によって流されてい
るということに気がつかないまま肉体を離れ
て行くのではないでしょうか。
ここでクリシュナムルティーは自己記憶
即ち思考である観察者から解放されて自
由となる方法を以下の様に言っているの
だと私は思っております。
③記憶の反応(観察者)をただただ見ること。
それは非常にシンプルです。
しかしとてつもなく難しい。
自己を観察している観察者を見なさいと言う
のです。
内部と外部世界を観察している観察者を見な
さいと言われるのです。
観察者とは思考であるから思考を見なさいと
言うのです。
この観察者(記憶の反応)を見なさい。と
思考を見るには思考なく「思考ではない意識」
でもって見なさい、凝視しなさい。と
思考と一体化することなく思考を見なさい。
と・・・それが記憶からの解放、自我・私か
らの自由への方法なのである。
と仰っております
ここでクリシュナムルティーの表現が分かり難いのは
観察者と言う言葉であります。
観察者とは具体的はどういう意味でありましょうか。
・恐怖がやってきたとき、恐怖に対して恐怖から逃れよう
自由になろうとして何かを唱えたり、誰かに頼んだり
恐怖を観察しようとしたりしている私が即ち恐怖の観察
者のことである。それが恐怖という思考・アハンカーラ
なのではないでしょうか。
恐怖を観察している私が恐怖なのだと言うのであります。
・欲望や暴力がやってきたとき、その欲望や暴力などの
想念に対してその欲望や暴力から解放されようとして
何かの「行」をしたり、その欲望を観察したり、神に
祈ったりする「私」、それが欲望や怒りの観察者即ち
記憶のことであり「思考」であると。それは即ち
「観察者」という記憶の自分が自分から逃れようと
しているのであると言われております。
通常の生活ではこの「観察者をただただ見る
こと」は為されないで観察者と同一化してし
まっていることに気がつくことがありません。
恐怖を観察している観察者を思考なくただただ
見ること。凝視すること。「恐怖を見ている恐
怖の観察者は誰ですか?」とその恐怖の観察者
に尋ねるのだと。「私は誰か」と尋ねるのだと。
私達であるブッディーで自分を覆うチッタと
アハンカーラを見るのだと。
それゆえ私達は「この起こっている内部と外部に絶
えず反応している観察者をただただ見る」という
非常に真剣なワークを寝ても覚めても行うべきなの
であると。
このワークは思考なく思考を見るのと同じことなので
でありましょう。
この思考を思考なく見ることが思考の浄化に直結
していくでありましょう。
自他の鏡に映る姿、そのままを見つめていると
次第にその姿がゆっくりと変化していく
のがわかるはずである。
映る自分の姿が変わるにつれ
からだもこころもたましいもゆっくりと
変化する。
あなたの心に映る変化を細部にわたって
少し気をつけて見つめてごらん。
ホ・オポノポノ「叡智の雫」より