私が実在しているというその感覚は去
るに違いありません」
「思考とは動きなのです、即ち時間です。
私(思考は)は時により組み立てられて
います
・・時は思考です。」
クリシュナムルティ
私の感想
このクリシュナムルティーの言葉を自分なりに整理
して考えてみますと、
この現在の私達の感覚とは時間と万物の動きを知覚
している感覚ですが、それは思考による思考の感覚
知覚なのであるというのです。それは「意識」による
知覚ではないというのです。勿論立ち位置が全く違
うので私達はそんなことは考えたこともありません。
私達の夢の中身も、日中に沸き起こる希望も、計画
も、切なる願いもそれらは全ては思考による動きで
あると言うことであります。
この私達の感覚とは、自分と自分以外を分離してい
ます。そして自分とは肉体であると実感しています。
その感覚がベースとなって
相手は自分ではないと見えていますし、万物
は私とは異なると実感しております。
しかし
・・その知覚とは記憶による知覚だというので
あります。そしてその記憶が肉体や思考を私だ
と自己自覚しているのであります。
その内部と外部を見ている私とは記憶の反応であ
り、その記憶とは「私という観念」であると言わ
れております。
その「私という観念」とは即ちエゴのことであり
ます。
そのようにこの思考とは常に自他を分離し、自己
保存、自己拡張、自己関心という意識状態にあり、
絶えることなく自分のことを気にかけて自分の損得、
自分の利益、自分の評価、自分がどう思われている
のか、自分の財産、自分の成果を気にして、そこに焦
点が合って生活しています。
(ここで言う思考とは純粋な思考、純粋な知性のこ
とではありません。自他を分離して見ている記憶の
反応のことです)
思考それは即ちこの私、即ち私を詐称する記憶のこ
とであります。
その記憶のことを私達は私だと信じておりまして
決して疑うことがありません。
この私は常に相手を批評し判断しています。相手と
は自分自身の姿であるとは露にも思っておりません。
そのことを全く理解出来ないのがこの私即ち記憶
の反応である私なのです。
即ちこの私とは未だ意識されていない「意識の私」
なのではなくて思考が生み出している思考の私なの
でありましょう。私達は思考に覆われていて正しく
目が見えない状態であるのです。
クリシュナムルティーは「思考なく見なさい」と
私達に言われています。「私なく見なさい」「心
なくして見なさい」と言われております。
なぜなら私達は思考ではないからなのです。
記憶ではないからです。本当は私達とは空なる
意識だというのです。
思考に全く包まれていても思考ではなくて意識
だというのです。いまのところはほんの少しし
か機能していないけれども私達は思考ではなく
て意識なのですと。
思考なく見ているときは、自他の区別がなく、
過去現在未来という時間がなく、時間は停止
しており、そのとき全ての動きは停止してい
る。
と、クリシュナムルティーは言うのです。
その時、そこには静寂と平和がある。
私は拡がっている。
と言っておられるのであります。
もし思考が停止したならば、そのときには、そこ
には自我は存在していないというのです。
何故ならば自我の本体とは思考だからです。
思考がなければ自我はないのです。と
これを知覚の面から言えば、内部と外部の分割、私と
あなたの分割、時間認識、動きがあること、自我自己、
支配欲、欲望、恐怖などは思考そのものの姿であると
いうのであります。
思考が私達を覆い隠して目が見えなくなっているだ
けではなくて、通常の私達の人生とは思考が見て思
考が行為しているのです。感じているのは私ではな
くて感じているのは思考です、思考という記憶が考
えているのです。思考という私が行為しているので
す。というのです。
クリシュナムルティーは常々「思考なく」「私なく
見なさい」と教えられております。
それは
意識が脳が受信している思考という化学物質や、
伝達情報信号を受け取って、又それらの記憶
に支配され染まっているのですが、私達とは
思考ではなく、それを成立させているスクリ
ーン・鏡・空間・意識でありその自己を想起
しなさい・・
と私達は言われているのであります。
即ちこの私達の感覚とは普遍的な意識による感覚
なのではなくて、「相手とは自分ではないと知覚
している記憶」であり、その知覚とは実際には意
識による知覚なのではなくて、思考の知覚なので
ある。
・・と言うことでありましょう。
この私とは意識の私ではなくて私を覆い隠してい
る思考なのでありましょう。
その証拠は、クリシュナムルティーの言っておられる
ように、この記憶の反応である思考の感覚は、自己関心
そのものであり、常に内部にも外部にも沈黙がないと
いうことでありましょう。
即ち時間を知覚していると言うことであります。
それは肉体の感覚以外に高次の諸体が生育していない
からなのです。その高次の諸体の感覚がいまだ知覚され
ていないからでありましょう。
そして
・・この思考の特徴は全ては動いている様に見えている・・
ということであり、私達が見て聞いて知覚している世界は
思考の世界なのでありましょう。
もし思考が停止したのならば、全ては停止して見
えると言うことなのであります。
投手が投げたボールが止まって見え、ピストルの
銃弾が止まって見えるのです。相手が止まって見
えるのです。私達は肉体ではなくて肉体を超えて
拡がっている私自身を知覚するのですと。
もしこの私達が本当に記憶・思考から解放されて
いて
「思考なく見ている」のであれば、時間は止まって
おり、全ての動きは停止しています。と、
その知覚の中には、時間がなく、全き平和と静寂
と「空」という光の意識(愛)がそこにあるとい
うのです。
私達が相手を自分自身ではないと知覚し、欲望と
自己関心と恐怖に苛まされている限りは、私達の
この意識とは決して意識なのではなくて、「私」
を詐称している思考なのでありましょう。
もしこの私が私であるならば、決して自分の中に
も、相手の中にもエゴを見る事はなく、私はあな
たであり、私が対象であり、そしてそこには記憶
による知覚ではない、本来の知覚が顕れているこ
とだとクリシュナムルティーは仰っておられるの
でありましょう。万物は一体なのでありましょう。
そしてその思考がストップしている本来の意識に
よる高次感覚の中においては一切の動きは停止して
おり、時間は止まっているのだと仰っておられ
るのです。
この三界における私達の感覚とは記憶による思考
の知覚であって意識による感覚ではないことであ
りましょう。