観察者は観察されるものである・・クリシュナムルティー


私の感想

現在の私の段階ではこの彼岸からの言葉は全く理解出
ない。とても人類の認識レベルでは推測も理解も出
来ない真理をこの言葉は述べている。
私達とは神道的に言えば一霊四魂なのであるが、クリ
シュナムルティーは直日・一霊の私即ち鏡として、そ
れはまた「IAMI」の私として人類に語りかけてい
るのである。


この事の体験も理解もない私が述べることは全くもっ
不遜であると思われるのだが、あえて述べさせて戴
きたい。

この
「観察者は観察されるものである」とは黒住宗忠
の言う
「人の心は鏡なり己が姿を移してや見ん」と同じ
なのである。

それはまたクリシュナムルティーの
「私は世界である」
「世界は私の責任である」
などと全く、同じ真理を異なる角度と表現と言葉で
あちら側・彼岸から述べておられるのであると思う。

この言葉は、此岸にいる私達には全くもってチンプ
ンカンプンで何を言っているのか理解出来ないので
ある。
・・かく言う私もその一人であり、そのレベルであ
るのだが・・。

このことは、関心のない人にとっては「頭でっかち
の連中が戯けた事に思いを巡らして!・・いったい
そのことでいくら儲かるのかい!」「どのくらい効
果があって、どのくらい効くのかい!」などと叱ら
れそうである。・・しかしこの考察はまるで功徳が
なく一銭の得にもならないのだが考察をしてみたい。

では改めて「観察者は観察されるものである」
とは一体どういう意味なのであろうか?

私、初心者が手探りで思考を進めていきたい。

私達は嫉妬やエゴや自己関心、プライド、暴力、
恐怖に対してどのように向き合っているのだろ
うか?

通常は私達は自分のエゴや恐怖、他人のエゴに接
したとき、それを自分が自分の対象として知覚し
判断し、非難し、逃避し、同一化しているのでは
いだろうか?

それらのエゴや恐怖を見られている対象として見
ており、見ているこの私とは別の対象としてそれ
らを観察し非難し、又は同一化している。

決して、そのエゴや暴力や恐怖やプライド心や
競争心に愛を注いだり、抱きしめる事はしない
であろう。私達はそれらを観察し、それらに対
して非難し、逃避し、改良しようとし、無視し
または同一化したりしようとすることであろう。

では、その恐怖を対象として観察しているもので
ある私とは、即ちその恐怖の観察者とは一体誰な
のであろうか?

「見るものは見られるものである」と言われてい
るので、そのことに関しての発議なのである。

私達は通常では自己・エゴ・恐怖を自分の対象と
して見て観察し知覚している。自分とは観察して
いる観察者であり、観察されている対象ではない
とみている。記憶の反応を自分ではないと見てい
るのである。

即ち観察者が自分の事を、自分の観察の対象とし
て見ており、自分のエゴや他者のエゴを観察の
対象として見ているのである。

この自分のエゴや他人のエゴを観察している私は
実際には同じエゴ・恐怖であり、エゴが私として
の自分自身を分離して、自分を対象として見て観察
している。記憶を知覚しているものは記憶なので
あるとクリシュナムルティーは言っているのであ
ろうか。


恐怖が恐怖のことを自ら分離し、自分の観察の対
象として恐怖を恐れ、見て自分や他人を非難して
いる。・・・
というのである。

即ち自分を対象として観察している「観察者・自分」
とはその観察されている自分、自分の観察者であ
る。と仰っているのである!!

・・・何のことか・・頭がぐらぐらしてくる・・

私が見ている「どうしようもない相手」とは「この
見ている私なのだ」・・と言っているのである。

これは全く神道の黒住宗忠の「立ち向かう人の心は
鏡なり己が姿を移してや見ん」と同じである。

自分が自分自身を対象として観察しているのであって
観察されている私や相手や心の中の不安や暴力や恐怖
とは見ている私自身なのだと言っているのである。

この恐怖や自我や相手を「見ている自分」とは異なっ
ていると思っている私とは誰であろうか?

それは記憶であり、思考であると言っておられる
のであろう。記憶が記憶を観察者と観察される者に
分離していると。そして記憶自らが自らを非難し、
逃避しようとし、改善し、良くなろう、何かにな
ろうとしていると。

では記憶や思考は私と分離しているのであろうか?
その記憶や思考を自己ではないと思っている私とは
実際の所それも思考や記憶なのではないか?

思考という記憶がないとき、分離して見ている観察
者という私は存在していないと言われる。

その分離がない意識の中には「他と分離している私」
「観察者の私」はいないと。

その時、観察者は観察されるものなのであろう。
その時、恐怖は観察の対象ではなくて、恐怖が私な
のであろう。そして恐怖も神なのであると。


観察者と観察されるものを分離して見ているものは
即ち自分が自分のエゴを対象として見ているもの
観察者とは、同じものであると

「見るものは見られるものである」と。

ではその観察者は観察されるものであり、それは
同一のものだと見ているのは誰であろうか?

その「観察者は観察されるものである」時、その
実際の知覚と理解があるとき、

その観察者と観察される者が分離していない状態
のとき、

観察者が観察される対象と一つになった状態に於い
主体と対象の分離は止む・・そこに愛が在るとい
うのである。

私が恐怖を見ているのではなくて、恐怖が私である
時、主体と客体の分離が消失した意識状態の時、
そこに観照者・気づき愛が出現していると。

何故ならそこには主体と客体の分離がない超高次
な目が出現しているからだと。

即ち高次の意識=見る者と見られるものの分離が
ない愛が出現している。
と仰っておられるのである。

さて、これらの言葉を私達は理解出来るのであろうか?

私達はこのことを体験し理解しているのだろうか?

正直言って私は全く理解していない。頭で誤解してい
るだけだ。理解したくとも目が開いていないので
理解出来ないのだ。知覚がないからである。

この言葉を情報や知識という伝達可能な思考ではなくて
この言葉を体験しているとき、そこには意識と気づき
があり「愛」が姿を顕している!!と言われている。

この観察者は観察されるものであるとの理解があるとき
そこに愛が顕現し、見る者と見られるものの非分離の
意識状態の中で、即ち「恐怖が私である」という主体と
対象が一つになったときに、今まで恐怖であった恐怖
が、一転して「恐怖は神であった」こと即ち恐怖の根
源が姿を顕したのである。と

一切万物は神であったのである。と

神以外には何ものも存在していなかったのである。と

全ては「愛」であるとの実相がそこに顕現している
のであると言うのである。

黒住宗忠のいう人の心である天照大御神の御分心が
そこに顕現しているというのである。


彼のこの「観察者は観察されるものである」または
「見るものは見られるものである」であると言うこ
と、そしてまた黒住宗忠のいう「立ち向かう人の
心は鏡なり己が姿を移してや見ん」を、実際に知覚し
このことを体験しているとき、この「意識」は思考
ではないというのである。

それは人類には全く見たことも聞いたことも理解す
ることもない平安と歓喜に溢れた「超意識」「観照者」
「たましい」「気づき」とも言われている空の意識が
そこに出現しているということなのだ。

・・そのようにクリシュナムルティーは言って
いるのであろうか。

この
「観察者は観察されるものである」を理解してい
るのは観察者や観察されるものではない「観照者」
「気づき」「意識」「黒住宗忠のいう人の心・天
照大御神の御分心」であるのであろう。

それは「私が恐怖を観察しているのではなく、私
が恐怖である」という非分離の超知覚が顕現し
知覚が自他に分離していない状態、
主体と客体、主体と対象が分離していない状態、
「見るものは見られるものである」を実際に体験
している状態の意識であり
観察者と観察されるものが一つになっている超高
次な知覚認識なのであると推測される。

この観察者は観察される者である。
主体と客体は一つである。
「見るものは見られるものである」
を理解しているのは観察者や観察されるものという
分離分割している思考ではないが、思考をも内包して
いる空の意識なのであろう。

それが「気づき」「観照者」「魂の意識」「超意識」
「空の意識」といわれている意識なのであろう。
それは善悪を超えている。自他を超えている。
それは時空を超え、最小の中に最大があるという。
全ての中に全てが在るという。


現象即実相
自我即真我
煩悩即菩提
であるとき、そこに「神の御国」「実相世界」「衆生
劫尽きて大火に焼かれると見るときも、私達が浄土は
安穏にして天人常に充満せり」という浄土があるのだ
ろう。

それ故に
「天地一切のものと和解せよ」、「天地一切のものを
愛し感謝せよ」「記憶と同一化してはならない」「自
己を想起せよ」と教えておられるのである。