悲しみや苦しみを超えて、悲しみや苦しみの中に
さえ「私は在る」のだ・・或る賢者の言葉
私の感想
通常、私達は自分を肉体だと思い、怒りや欲望や
自尊心プライド等を知覚し、欲望や、嫉妬心や、
恐怖心に気づき、そして自分が怒り、自分が不安
になり、自分が恐怖していると誰もがそのように
実感しております。
そしてそこへ私達の意識のレベルを遙かに超えた
彼岸からの教えを耳にします。
・・その彼岸からの言葉はこう言います
・・「それらは透明なスクリーンに投影された映像
に過ぎない」それはあなたではない!!
あなたとはその映像を映しているスクリーンなのだと・・
そして、それを聞いた私達、即ち此岸という、二
元分離のマインドの中にいる私達は見る者と見ら
れるものが分離している知覚認識の中でこう思って
しまうのです・・
「そうだその教えの仰るとおりだ」「私達は、自分
が思考し、自分が行為し、自分が求め、自分が欲し
ていると実感しているのだがそれは本当の自分では
ないのではないか?それらは私を詐称する記憶に過
ぎないのだ」と。
そう思っている者こそが此岸にいる二元分離の私で
あることに気がつきません。
私達は本来は意識であっても思考に覆われており
私達の現在意識は思考なのであり、賢者達の言葉
を深く信じている状態なのです。
そして又本来は意識であっても思考に覆われた
私達の現在意識はこう思うのです。
「この肉体、神の宮である肉体は私なのであろうか?
自分のエゴは本当に自分自身なのだろうか?
このプライド、自己関心は私自身なのであろうか?
この思考や欲望や感情や私なのであろうか??
私達とは聖者達が言うように私達は鏡という意識
なのではないか。
私は果たしてこの記憶の反応である思考や感情な
のであろうか?否そうではない私達は鏡であり意
識なのだ」と
また
「私とは肉体でもなく、思考でもなく、感情でもない
意識の座であり、鏡なのである・・と覚者達は口を
揃えて言っている。・・そうだ・・私達は鏡なのだ」
と、私達の潜在意識の中にある記憶がそう思うのです・・
・・そう思っている本体こそがその記憶であること
に気がつくこともなく。
そして
・・そのように真理を誤解していることに気がつ
くことなく私達は自分の現在意識の状態のことを
錯覚してしまうのです。
「そうだったのか私はこの自我を観照している鏡
であり意識なので思考ではないのだ」と。
・・・私達は二元分離の思考の中でそう思ってし
まうのです。
・・・それは真実であっても、現在意識の状態で
はないのです。
彼岸からの言葉を此岸にいる私達が、即ち二元分
離である「見る者と見られるものが分離している」
知覚認識の状態の中でその様に真理を誤解し歪曲し
てしまうのです。
悲しいかな!
私達は此岸にいて二元分離の中で「あなたは思考
ではない意識である!!と、それ故思考なく見な
さい!!」と教えられた真理を二元分離の思考で
捉えて真理を歪曲してしまっていることに気がつ
かないのであります。
自分自身の現在意識は此岸の二元分離の知覚の
段階であるのに、私達を覆っているその記憶
が下記の様に錯覚してしまうのであります。
「意識・鏡という私がもともと実在しているので
哀しみや苦しみの私もあることが出来ているという
わけなのか」と・・。
しかしながら真理の目の中には他者と自己との
分離はない一元であり、自己内部の中では
見る私と観察対象の私は分離していないのに、
自分自身を高次の自己と葛藤に喘いでいる低次の
自己に分割して自分自身を分離分割して見てしま
っているのであります。自分の内部が葛藤してい
るのです。
この自己の現在意識の状態は全くもって記憶の状
態なのです。
彼岸からの高次の教えをそのまま即私達の現在意
識の状態だと誤解して私達はその真理を歪曲して
いるのです。
「意識の座・スクリーンという「わたしが在る」
からこそ、そこに映し出されている哀しみや苦し
みや恐怖もこの自我も映し出されていることが出
来ているということなのだ。」
「悲しみ苦しみ、恐れ、不安でかき乱されていて
も、そこにはそれらを写しだしている鏡、透明
なる意識があるからこそ、その哀しみや苦しみ
も恐怖も知覚認識されていることが出来ているの
ではないのか。」
これは私達の潜在意識から記憶が透明になっている
現在意識の状態であり、それは自分がそのことを
信じて、想像している段階であるにも拘わらず
自分が理解しているのだと錯覚してしまうのです。
その錯覚しているものとは、意識であっても哀し
みや苦しみという記憶と一体化している私である
ことを理解出来ないのです
そしてその様に自己が分割し分離されている状態
なのに、真理を誤解している状態であることでさ
らに深く迷いの世界に入っていくのです。
「見るものは見られるものである」を実際に知覚す
ることもなく・・・。
この潜在意識の記憶と一体化している現在意識の状
態とは・・
自己を見ている高次の自己と見られている低次の自
己に分離分割していること自体が記憶の状態である
ことに気がつくことなく・・・
彼岸からの真理を実際に知覚するには私達は彼岸に
いなければ出来ない事を知ることが無いのです。
従って、この此岸にいる私達には信仰と確信が必要
なのです。
私達は深く此岸の中にいて私とあなたに分離してい
る二元分離の世界に没入して染まっているのです。
私達が実際に自分は思考ではないとそのように宣言
できるまでは、私達はこの「私は思考ではない意識で
ある」という観念を使って真実の自分を想像し信頼し
信じるしかないのです。正しい思考と信仰が必要な
のです。
では朝、目を覚ましたのはだれでありましょうか?
それは記憶が目を覚ましたのでありましょう。
ではその目を覚ました記憶とは何でしょうか?
それはこの記憶、二元分離の私なのでありましょう。
記憶とは本当の私ではないので自分を見ている私と
見られている私が分離しているのです。
それはこの夢の中の私、夢の中での主人公である
わたしでもあり、二元分離の思考の反応であり、
見る者と見られる対象が分離して知覚しているわ
たしであります。
未成熟の段階での現在意識は記憶に染まっており
その思考感情は昨日のそして無数の昨日からの記
憶であるのであり、その記憶とは過去のデータな
ので、決して新鮮な新たなる喜びと感動に満ちた
朝を迎えることはないことでありましょう。
記憶には喜びと感動がないのです。この記憶は
常に自己関心に覆われた私であることでありまし
ょう。
しかし、その記憶・マインド・自我が目をさ
ます事が出来たのも、そのベースには意識と
いう鏡があるからこそなのでありましょう。
しかしこのことは此岸にいる限りは理解し知
覚できません。観念でそう信じることが出来
るだけです。
それは
鏡があるので鏡に映っている悲しみや苦しみも
自我エゴ・プライドもいることができるという
ことなのでありますが、肝心なことはその真理
とは思考では理解出来ないと言うことなのであ
ります。
彼岸からの観点からすれば
そもそも「愛」と叡智と歓喜しかないことであ
りましょうし。その観点からすれば、この此岸
にいる私達を覆い尽くしている苦しみや悲
しみや不安や恐怖や自我プライドという記憶が
あることが出来るのもこの意識という鏡スクリ
ーンがあるからなのでありましょう。
けれども
朝、目を覚ました私とは、私達の潜在意識を占
有している私という記憶であり、
決して意識という「日々新たなるもの」ではな
い二元分離の思考なのであります。
何故ならば、そこには私と対象が分離している
からです。
その目を覚ました私とはそれは目の前の相手とは
自分自身であることを理解しませんし
自分の中の恐怖を対象として分離の目で見ている
ので「見るものは見られるものである」「恐怖を
見ているものは恐怖である」「私は恐怖である」
を決して理解することがありません。
またそれは
悪しき敵とは自分自身であることが分かりません。
世界と私は分離しておらず、私は世界であることが
理解出来ません。
それは私達が軽蔑し、避けて非難しているその相
手とは自分自身であることを決して理解すること
のない記憶であり、プライドに溢れた自我であ
り、見るものと見られるものが分離しているマイ
ンドであることを決して理解しません。何故ならば
・・それはそれが私達の潜在意識の中にある記憶
であるからです。
私を支配し、私をコントロールしているものは思
考感情、即ち記憶であり、目を覚ました私とは
記憶という観念なのでありましょう。
その記憶が世界をそして自分を見ているのであ
りましょう。
そしてその私を支配している記憶に私達は支配
されたままテレビを見、車に乗り、会社に行き
仕事をし、食事をし、家に帰ってはまた眠った
まま眠るのであります。私達は記憶に完全に支
配され覆い尽くされているのでありましょう。
その記憶の最大の特徴は相手を自分ではないと
知覚していることであります。
それは脳の機能を支配し、脳と結合して思考と感
覚と行為を支配コントロールし「自分を私」だと
思っています。記憶であるのに自分は意識である
とそう錯覚しています。
そのようにして私達は目を覚まさないままに一生
を過ごしていきます。
記憶である恐怖と不安と自己関心に悩まされ、満
たされない欲望に覆われたまま、記憶に支配され
て肉体の死を迎えます。
そして恐怖が万物と分離している私であることの
知覚に至ることなく又新たなる肉体に転生してい
きます。
毎日、朝、目を覚ました私、それは記憶。それは即
ち哀しみであり、苦しみであり、欲望であり、エ
ゴ自我であり、支配欲であり嫉妬心であり、性欲
でありシャクティー(性力)であり、自分のこと
を私だと思っている私即ち記憶なのであると教え
られております。
現段階の現在意識の私達はこのことを深く確信する
しか方法がないのです。正しい信仰が最重要です。
夢の中の主人公の私とは記憶であり、その夢が目
覚めることなく継続していきます。
そしてその主人公は、相手とは自分であることを
決して理解しないまま毎日の生活は続いていきま
す。
私達はこの記憶の支配から自由となり、二元分離
の思考の呪縛から解き放たれるためにこの記憶に
同一化することなく記憶を愛し思考・想念を使
わなければならないのであると言われております。
思考からすれば逆説的で矛盾しているかのように
思うのですが、私達は思考の奴隷なので、これを
理解しません。しかし信じることは出来るのです。
そして思考の奴隷から解放され自由の身と
なる為には思考に愛を注ぎ、正しい思考、正し
い言葉を使わねばならないと教えられています。
是こそが「ありがとうございます」の念唱であり
言霊の力を借りて無念一心に唱え、我の心を
祓い浄め、クリーニングすることでありましょう。
大聖者ヨーガヴァーシシュタは仰います。
思考から解放されて思考なく見るためには、即ち
「私は在る」という本来の不二一元の意識に回帰
する為には、「私は在る」という観念・思考を使わ
なければならないと。
その様に念じ唱えなければならないと。
私達はこの思考マインド心から解放され「私は
在る」に回帰するためには「私は在る」「I AM
I」という観念を使用しなければならないと仰い
ます。
自分に回帰するためには「南無阿弥陀仏」と唱え
「ありがとうございます・愛しています」と唱え
「私は在る」「I AM I」と唱え続けて、常に自己
想起することが大切なのだということでもありま
しょう。
そして
それが自分に戻ることであり、社会奉仕であり先
祖供養なのではないでしょうか。
自我思考記憶から解放され自由の身となる為には
正しい思考想念が必要不可欠なのであると教えて
おられます。
だからこそ、私達は「私は記憶ではなく意識で
ある」「私は天照大御神の御分心の鏡で在り
鏡に映っている我の心ではない」「愛してい
る」「ありがとうございます」と絶え間なく
真理を唱えることが大切なのでありましょう。
大聖者ヨーガヴァーシシュタはかくの如く私達
に教えを垂示されます。
真我そのものの中に(それもまた真我そ
のものである)ベールが現れ「主体-客
体」という両極を作り出す。
無限の意識そのものが、心と呼ばれるも
のなのだ。
このベールは無限の意識の中に存在する
一つの観念、意図あるいは想念だ。
心はこの観念や想念から生まれる。
そして心はその観念や想念の助けを借り
て、観念や想念を破壊させることで消え
去らねばならないのだ。