衆生劫(コウ)尽きて、大火に焼かるると見る時も、
我が此の浄土は安穏にして、天人は常に充満せり
・・妙法蓮華経如来寿量品第十六
神の国はあなたのただ中にある
ルカ福音書17章20-21節 イザヤ書17章
あなたは映画の映像ではない、映画のスクリーンの
映像を見ている人である!!
ラマナ・マハリシ
空の空、空の空、いっさいは空である。
旧約聖書 伝道の書1章2
(あなたはその映画を見ている観照者である)自己を想起すること!
自己を想起することが真我実現を齎すのだ!!
ニサルガダッタ・マハラジ
神は全ての人の中にいます。
もしこのことを実感として分かれば
私達は全ての人々を抱きしめるでしょう
・・影としての現れが何であれ。
その現在のパーソナリティーが何を現して
いようとも私達は神を見ているのです。
・・エレブナ
私の感想
私達は自分の知覚認識で自分の内部と世界を見ており、何ら
その知覚認識を疑うことはありませんし、その知覚認識の中
で起こっている出来事と反応する思考と感情を私自身と完全
に一体化していると言われております。
通常では、私達は考えや感覚とか感情は勿論当然のこととし
て、自分が感じて、自分が考えて、自分が決めて、自分が
生きており、自分が世界を知覚認識していると・・・
そう思っています。
この思いや、この考えや、この思いや、このフィーリングや
見ている目は自分だと・・そう思っています。
しかしその知覚認識は私ではなく、私を覆い尽くしている記
憶が感じ考え、思い、見て、聞いて、選択しているのだと言
われているのです。私達は記憶と全く一体化しているのです
と。
その「記憶である私」は、私達ではなくて私達の潜在意識に
ある記憶が記憶自身の思考と感情を実感し自らを知覚認識し
ているのですと。
私達が見て感じている内部と外部の世界とは、実は私達が見
て感じているのではなくて記憶が見て知覚認識している記憶
の姿なのです。
そして
私達はその記憶と完全に一体化してしまっているのですと。
私達はあるがままを知覚認識しているのではなく、記憶の
解釈、記憶の知覚によって歪曲されてしまっている記憶に
よる世界、記憶が見ている外部と内部を見ているのです。
私達が知覚しているのは記憶の中であり、記憶の私なの
でありましょう
だからしてこの知覚認識とは、私の知覚認識ではなくて
記憶の知覚認識なのです。
私達はそのことを何ら疑うことなく、自分が自分の内部や
世界のことを知覚し見て、聞いて、判断し、行為している
とその様におもっていますけれども、実は世界や自分自身
のことを見ているのは私ではない「私という観念」の記憶
なのだというのです。記憶が見て聞いて感じて判断して行
為しているのです。あるがままを見て反応しているのは記
憶なのです。
私が知覚認識している私の思いや感じや考えと・・そう実
感している私の思いや思考や感情や選択などとは、実は私
自身ではない記憶がしているのですと教えられています。
世界や相手や私、それを対象として知覚認識している「私」
とは本当の私ではなくて、それは記憶だと言うのです。
その記憶による記憶の知覚認識を私達は自分の知覚認識だ
と思い込んでいるのですと。私達はいま記憶の世界にいて
記憶の世界を知覚認識しており、当然のことながら自分は
神の子であることに全く気がついていません。
ですので世界やあなたを対象として見ているこの私とは真
の私である神の子の私を覆い尽くしている私という観念の
記憶や行為だと言われています。
そしてその「私という観念の私」は、自分の姿を他者の心
に投影して、自分の事を他者として知覚認識しているので、
相手を非難し、自分を恐れ、自分から逃避し、自分を憎ん
でいるのです。
私達の現在意識とは条件付けられている記憶と意識との混
合・坩堝状態なのであります。
本当の私はそれら起こっている思考や感情ではなく、また
肉体や諸体ではなくて意識なのですといわれています。
私達の限定されている知覚認識とはニサルガダッタ・マハ
ラジの言うこの映像上の私による知覚認識なのです。
私達が対象として見ている私も相手も世界もこの源泉から
投影されている映像の私の知覚認識なのです。と
なぜなら本当の私は主体と対象の区別がない意識そのもの
だからですと。本当の私とは「一霊四魂」の一霊であり、
ハートの中心にある真我であり、「私の中に万物があり、
万物の中に私が在る全体であり」、無限空間即ち空であり、
自我が全く存在しない空(思考のない空、自我のない無)
であり、全てを生かし支えている大生命などと言われて
いる時空を超えている意識でありましょう。
即ち本当の私達とは黒住宗忠のいう天照大御神の御分霊
なのでありましょう。
現在の表面意識には到底理解出来ない未知なるこの真の
私を覆い隠している私・・・この私とは映像の私です。
この映像の私は内部と外部を知覚認識している「私」で
あり、映画のスクリーン上に投影され登場している「私
(記憶の私)」という映像なのでありますと。
この映像の私が思考し行為し、暴力的で、カルマを生み出し
続けております。
ですから起こっている事の全て、苦しみや病気や殺戮の
責任はこの、それを知覚認識している記憶の私にあるの
であります。
従ってこの表面意識で知覚認識している「私」とは思考な
く映画を見ているわたし(観照者)なのではありません。
この「私」とは、黒住宗忠のいう天照大御神の御分霊
である私ではなくて、誤ってその神の分霊が同一化して
しまっている「記憶の私」「我の心」なのでありますと。
聖賢の方々はその自分と世界を知覚認識している「私」
こそ映画のスクリーン上で演じられている私であり、
その映像の私(即ち知覚認識している私)とは映画を
思考なく見ている本当のわたし(観照者)なのでは
ないと言われております。本当の私とはその演じられ
ている私を、抱きしめ、愛し観ている観照者の私なの
だと言われております。
映画の中の主人公である私・・それらは心の中で繰り広げら
れている映画の映像なのです・・それはマーヤの映像なので
すと賢者は言われております。映画では肉体が行為し、病気
になったり、怒ったり、好きになったり嫌いになったり、欲
望が荒れ狂い、成功したり失敗したり、成長したり、堕落し
たり殺したり、殺されたり、死んだり生まれたりしながらあ
らゆる出来事が続いております。
カルマによって寸部の狂いもなく決められている出来事が起
こり、それに対して記憶が反応し行為と思考が起こっていま
す。その起こっている事の全ては「記憶の私」即ちこの知覚
認識している「真の私を覆い隠している私」の責任なのです。
しかし
しかしながら「本当の私」とは、この知覚している記憶の私
にとっては未知の私であります。
未知なる本当の私とは「映画の中の主人公の私」を観照して
いる私なのです!!
この表面意識によって知覚されている私ではありませんと。
私は映画のなかの「私という主人公」ではないのです、といわ
れております。私は思考なく映画を見ている観照者なのですと。
ですので
その観照者の私即ち本当の私の事を常に自己想起しなさい!と。
私は天照大御神の御分心なのですと。私は無限に拡がる意識な
のです。と、ですのでその真の私をいつも思い出しなさいと。
聖賢の方は「あなたは思考に塗れていても思考ではなく意識
であるから”思考なく見なさい”」「あなたは空で在り、無限に
拡がっている意識(無限なる霊)なのですと言われているの
です。
「あなたには思考なく見ることが出来る可能性があるのだ」と
言われております。
あなたは「自分は映画の主人公だと錯覚する私という観念の私」
ではありません。その私という観念の私を観照している私なので
すと。
ですからその思考を非難したり、思考である欲望や恐怖から逃避
したり、それらと一体化するのではなくて、
(それは思考の動きです)
その想念・思考・感情・欲望・恐怖・動機・願望・目的・行為
・私に対して感謝と愛を捧げなさいと教えられております。
仏典や聖書や聖者はそのように私達に道を示しておられます。
・・・これは常識的な考えではありません、非常に混み入り
複雑な「魂と繋がる私」とそれを「覆い隠している私」に関
する考察です。