そもそも意識を起こさせるのは気づきがあるためである・・ニサルガダッタ・マハラジ

2023/03/29(水)

そもそも意識を起こさせるのは気づきが

あるためである。

あらゆる意識の状態には気づきがある。

それ故に

意識が意識しているという意識、そのものが

既に気づきに於ける動きなのである。


ニサルガダッタ・マハラジ


私の感想

「気づき」に関して語っているニサルガダッタ・マハラジ
は私達とは違って、既に「気づき」を体験し、それを知覚
しているということであります。
ニサルガダッタ・マハラジの表面意識は「気づき」の意識と
意識的に繋がっていると言うことであります。
(人類にとっては「気づき」意識とは、考えたこともなく
考えられることもなく、想像されたこともない未知なる意識
の事であります)


さて、私達の意識はそもそもが「気づき」の中にある・・
ということは・・・

「気づき」があるので自我や恐怖も私もいるこ
とが出来るということでありましょう。

それは即ち「気づき」があるので苦痛や絶望も
恐怖も不安も暴力も、そしてそれらと同一化し
てしまっている「私達魂と繋がる私」もあることが
できるということであります。

苦痛や絶望や恐怖や不安や暴力とは条件付けられている
脳から必然的に生じている「我・エゴ」自体でありましょう。


ここで言う「気づき」とは、至高の実在と一体の
「大生命・たましい・魂・霊」のことであります。
「私という観念の記憶」によって覆われている私達魂
と繋がる私にとっては未だ意識化されていない
未知なる意識の事でありましょう。

これは「気づきからの意識の座(スクリーン)・目・
観照者」があるからこそ、その意識・鏡に映し出されて
いる思考や感情という自我・記憶もあることがで
きるのだと言うことでありましょう。



そして、その意識の座という表面意識(現在意識)に
生起し付着している行為や思考や感情に対しての私達の態度
・・即ちこれは表面意識としての私達の態度のことであり
ますが・・これが最重要となるのであります。

ですので、これらの起こっている事に対して常に反応し
ている「条件付けられている記憶・行為・思考」への
魂と繋がる私としての態度・思考・行為が一番重要なこ
ととなってくるのであります。

私達である「魂と繋がる私の表面意識」の「記憶の反応」
その思考や感情や行為に対するあり方・態度が最も大切
なのであります。愛をもって接しなければならない・・
ということでありましょう。


通常での私達とは表面意識に起こっている思考や感情や
行為に対して、それを自分自身だとして完全に同一化して
しまっているけれども、この起こっている事に対しての
態度、あり方が非常に大切であり、この起こっている出
来事に対して条件反応を繰り返している内部の思考や感情
に対して「愛」を以て接することがその起こっている事
や記憶を浄化することなのである・・と
教えられております。

カルマや宿命によって起こっている出来事に条件反応している記憶。
その記憶による思考行為ではなくてその記憶の反応に対しての態度、
意識としての態度、即ち出来事に反応する思考や行為に対する
表面意識としての意識、態度、行為が重要なのであります。
「思考という見ている者・観察者」への態度が重要なので
あります
私達魂と繋がる私の思考と行為が最重要なのである。
・・ということであります。

・・・ただし通常は私達にはその意識の座(スクリーン
・気づき)のこの意識は殆ど機能していないのです・・

・それはあまりにもその鏡の表面意識が記憶(思考・欲望
・自我)によって覆われて、記憶の反応と同一化してしま
っているから・・・ということであります。


「魂と繋がる私である鏡」という現在意識・表面意識の現状とは、
起こっている事に条件反応している記憶の(自我)、とそれに対
しての「表面意識」との混合状態なのであって、
私達の現在意識とはそれらで混合混濁している坩堝状態
であるということであります。

それなのに、この私達の表面意識は記憶の反応だ
けであるとしたり、
はたまた、この記憶の反応の思考の事を真我の意識
だとしたりしているのは間違っているということ
であります。



実際は、この私達の表面の現在意識とは「記憶の反応で
ある自我」と「鏡である表面意識」の混合状態であると
いうことでありましょう。記憶は個人的なものだけでは
なくて、地域、民族、国家の記憶もあり、且つそれらの
記憶はエゴを中核として、自分は肉体であり、個人だと
錯覚しています。本当は記憶とは「私という観念」であ
るのに自分は「私」であると錯覚しているのでありまし
ょう。


そもそもが魂(気づき)があるからこそ思考も感情
も自我もそして鏡の意識もあることが出来るからで
ありましょう。

起こっている思考や感情や行為に対しての鏡としての
私達の態度、私達の意識の思考や感情や行為が
私達の責任であり、鏡を覆うそれらに同一化すること
なく最大限の努力が求められているのであります。


※ここで言う「気づき」とは魂の意識のこと。
意識とは私達(たましいと繋がっている私)の
表面意識のこと。
そして起こっている思考感情とは私達の潜在意識に
ある記憶の反応のことであります。

※同じ言葉で違っていることを指していたり、違って
いる言葉で同じ内容を指していることもありますので
各教えや流派での言葉の意味は全く統一しておりません
ので、読む人が言葉に囚われずに言葉が指し示す意味
を理解する必要があります。

※私・意識の階梯と内容 
  Ⅰ:起こっている出来事、身体、運命、カルマ、カルマからの行為・衝動
  Ⅱ:「Ⅰ」に対して条件反応している記憶・エゴ自我(恐怖と苦悩)
  Ⅲ:「Ⅱ」に覆われ、同一化している魂と繋がる私・表面意識(原因体の先端部分)
  Ⅳ:「Ⅲ」を観照している本来の鏡・穢れ無き観照者
  Ⅴ:「気づき」と呼ばれている魂の私
  Ⅵ: 不二一元の私、解説不能な私
  Ⅶ: