虚偽を虚偽と見ることの中に真理はある・・・クリシュナムルティー

2023/03/17(金)
私の感想

通常世間一般常識では、いろいろと起こる出来事や、状況や、仕事や家庭の中で、私達は自分の

自由意志で決定し、自分が考え、自分が質問し、自分が思い、自分が感じて、自分が行為してい

ると誰もがそれを疑うことなくそのように実感しているのですが、それらは、実は私達の潜在意識の

中にある記憶が行っているのであり、たましいと繋がる私は未熟のためにそれらの選択には関わって

いないと言うのです。それらの私達がしている選択や決定そして思考と感情や行為とは私達ではな

くて私達の「意識の鏡」に映し出されている記憶の反応であると賢者達は言うのであります。

それなのに心の中に湧き起こる思考や感情や欲望は私達自身の思考や感情や欲望だということにな

ってしまっていのであります。私達の思考や感情や行為そして知覚や認識は記憶の反応なのですと。

それらとは聖書でキリストが言う口に入るもの(思考・感情・行為)であると言う

ことでありましょうか。

  

この私達をコントロールしている潜在意識の記憶とは、私達の人生に於いて脳が起こした行為

と思考と感情や欲望の記憶のことであり、脳で受信して起こっている行為と思考と感情と欲望

の記憶のことでありましょう。

 

 それはまた観点を変えればその記憶そのものが思考である「私・自己・自我」のことであり、

シャンカラ達によって私という観念と言われている「私・自己の観念」の記憶ことでありましょう。


では私という観念とは何でしょうか?

それは私が推測するに・・

根源が私という観念を使い、その私という観念の記憶(人格即ち私個人)

を使って生き、そして現象界での数々の人生を演じておられるのではないでしょうか?


平たく言えば、神が自らを再確認するために私として生きそして演じ転生を重ね

苦労をして自己認識するのではないのではないか!!?と言うことでありましょうか。

ラーマクリシュナは私達が生きているのではなくて、神が生きて演じておられるのですと

仰います。


そしてこの根源からの「私という観念」の記憶、

この記憶が自らが私であると思っています。そしてそれを誰もが疑いません。意識しているこの私とは

この脳を媒体にして形成された記憶のことであり、即ちこの私、「この人格の私」、即ちそれはこの

私自身のことでもあるということです。(魂と繋がる私はいまだ眠っていて目が開いていないからです)

 

 この記憶の私自身が表面意識で意識していて、意識の座の全てを被っている限りは私達には自由はない

のだと聖者は言われます。

アートマンはブラフマンだとシャンカラは言うのです。

  

この記憶の私は、脳で起こった感覚、知覚、または脳で受信された「私という観念」の記憶であり

それの思考であります。そしてその思考である記憶が起こっている事の全てに反応しているのであり

ましょう。記憶が脳に去来している行為の後に自分が行為していると実感しているのでしょうか?

畢竟、行為し、思考し、知覚し、認識している私とは神の演技であり、神が演じておられるので

ありましょうか?私は実際にはいないのであり、私達とは神の演技なのでありましょうか?


この記憶というものがカルマ(DNA)によって起こっている行為や感情や思考や出来事に対して

反応し、そして、この反応が更なる行為と感情と思考を起こしているのであります。

記憶が自分が行為し思考していると思っているのです。・・しかし記憶は起こっている事に対して

条件付けられているように反応しているだけであり、源泉・根源・神聖なるマーヤはこの

記憶(人格)を使って演じておられるのであり、肉体と脳に繋がった魂と繋がる私は

その記憶と一体化しているということなのではないでしょうか・・・(非常に複雑ですが)


記憶それはこの潜在意識の記憶ですが、それは肉体とは別の身体にあり、肉体の腹部の太陽神経叢と

繋がっているので記憶が実質的に肉体での私達の行為と思考と感情を支配しコントロールしています。

それが私達の人生の現実の姿なのではないでしょうか。

 

通常の人生でいう私とは脳で受信した私という観念の記憶のことであり、キリストが言う私達の

「口に入るもの」というものであり、この私の実体とは私たちの意識の座で知覚されてい

るその「私という観念」の記憶の思考と感情と行為のことでありましょう。

  

行為それらはカルマから、DNAから、そして記憶から正確に起こっています。魂と繋がる私の表面意識

(これは私達の段階では殆ど機能していないが)に映っているものとは、記憶の反応のことであり

それらとは「意識の座」(意識)の表面に私という観念の記憶から投影されているもの(口に入る

もの)でありましょう。


それは私達の思考と感情と行為、判断、恐怖、支配欲、情欲、暴力などであります・・  だが

畢竟、それら記憶の思考や感情や行為とは脳の条件付けからのもの(記憶)であります。

私が思っているのではなくて記憶が思っているのです。

私が行為しているのではなくて記憶が行為しています。

そして記憶(人格・私)を使って神が演じておられるとラーマクリシュナは言います。

そしてその記憶と一緒に行為し、思考している「たましいと繋がる私」にはその行為の責任が

あるのです。


それら記憶とは既に決定されているものであり、自由がないものであります。神聖なるマーヤと言われ

ている「私という観念」の記憶だからです。

が、しかしこの記憶は脳ではなくて肉体と繋がっている霊的身体に(潜在意識)にあるので、その潜

意識の記憶から、今度は行為を起こすのでありましょう。

 

 そして現在の地球人類の私とはそれらの記憶からの思考や行為、即ちそれが私という人格の私の

ことであり、その記憶の私に目覚めていない私達、即ち「魂と繋がる私」は、その記憶と同一視し、

一体化してしまっているので「魂と繋がる私」は記憶の人格が行うように行ってしまっている

のだというのです。

 

ここは非常に複雑です。これは非常に混み入っています。非常に常識からかけ離れています。

 

記憶ではなくたましいと繋がっている私からの思考や行為  ・・これが最大の重要点です。

・・・それをキリストは私達の「私の口から出るものが私を穢す」、と言っておられるのであ

りましょうか。記憶というそのマーヤ「根本無知」が起こしている行為や思考や感情即ち「偽の私」

に対しての魂と繋がる私の態度が一番問題となるのでありましょう。カルマを生み出すからです。

 

 その記憶のことをエレブナでは「魂からの私」が同一視してしまっている記憶の私・人格の私だ

と言っておられるのでありますし、キリストはその人格の私のことを「唖と聾」だといっている

のでありましょう。私達たましいと繋がる私はこの人格の私に対しての態度が問題となっている

わけです。

 

 この記憶即ち人格の私こそがミルダッドが言う神の子の私を覆い隠している私のことでありましょう。

 それに対して魂と繋がる私の霊的諸体からの正しい思考と正しい行為が求められているわけです。

 

 

 このことを再度復習しますと

 

通常、私達「魂と繋がる私」の思考体や感情体は未だ未熟なので、正しい思考と正しい行為をす

ることは殆どなく、その反対に「魂と繋がる私」は眠った状態でこの記憶の反応、脳の条件付け

の結果である記憶・思考のことを自分自身であると信じて疑わず記憶と一体化しているので

ありましょう。

 

そう信じているので記憶が思うように魂と繋がる私も思ってしまいカルマを創ってしまっています。

そう信じているので魂と繋がる私は記憶が行っているように行為してしまっているのです。

 

 私達は記憶(人格)が思うように思ってしまい、そして、同じく記憶(人格)と同一化し

ているので記憶が感じているように感じ、記憶が考え、決断し、行為しているのに、自分が

感じて、自分が考えて、自分が決断して自分が行為していると信じ込んでいます。


「魂と繋がる私」は記憶と同じように思い、そして記憶と同じように行ってしまってカルマを

重ねてしまっています。それはそもそもが「魂と繋がる私」は眠ったままの状態であるからです。


 ではその記憶の特徴とは何でありましょうか?

それは「私という観念」の記憶のことであり、神聖なる無知であり、嘘、虚偽であります。


悟った賢者方が言うように

万物一切は神であり、私もあなたも神聖なるいのちであり、全ての人は神であるのに、記憶は、自分

のエゴの姿を自分と他者に投影して「あいつは悪人だ」「あいつが悪いのだ」「あいつが私を殺した

のだ」などと錯覚しています。

またヒューレン博士達が言うように

内部は外部であり、世界は私の中にあるというのに、記憶は一切万物を自分とは関係がない私以外の

もの、対象は私ではないと錯覚しています。

私はあなたであり、「私達は一つ」なのに記憶は私とおまえは別々の人間だと錯覚しています。

真の私とは愛であり、意識であり、私の中に世界が有るのに、記憶は私は肉体であり、私と世界は異

なると錯覚しています。真実を知らない無知が記憶なのでありましょう。

私達は神の子なのに記憶はそれを悟りません。自分は生まれてそして死ぬ存在だと確信しています。

そう思っているのが記憶なので、真の私だったら私は生まれていないと言うことでしょう。

私達は神の子であるのに、未熟な魂と繋がる私はそれを悟らず、記憶と一体化しているのだといいます。

 

私達が知覚するその思考や行為とは実は私たちの意識(鏡)の表面に起こっている記憶(人格)の

反応であり、キリストはこれらの記憶の反応のことを「口に入るもの」と言われております。 


私達は本当は黒住宗忠のいう天照大御神の御分心であり神の子であるのに、私達の記憶は自分は肉体で

あって、生まれ、年老い、病気になり、そして死ぬのだと思い込み勘違いしているのでありましょう。

 

キリストはその記憶の反応に対しての私達(魂と繋がる私)の意識のあり方や行為のことを「口

から出でるもの」と言っているのでありましょう。魂と繋がる私の霊的諸体による正しい思考と正

しい行為が厳しく求められているのであります。

 

 私達の人格とは脳が受信して形成された「私という観念」の潜在意識にある記憶のことであり、

それがこの現在意識を「占有している私」の事であります。

すなわちこの私のことです。この私は記憶なのです。本当の私ではありません。正しく

見ることが出来ないからです。

しかしこの私とは、真実に於いては私達自身なのではなくて想念形態、それは即ち

「魂と繋がる私達」が誤って記憶と同一化したことで私達が創り出したエレメンタルだといわれて

おります。

 悲しいかな私達は毎日の日々の生活の中で通常は、何ら疑問を抱くことなく、私達はこれらの

記憶の反応と自分自身とを完全に同一化してしまっております。

  

通常の人生では私達は記憶と同一化してしまっていると言うことに気がつくことは決してありません。

そうして、そのようにして地球人類の文化や教育や科学や国家が形成されたのです。

 そして魂と繋がる私は殆ど意識化していないので記憶が自分だと信じて生きています。

 


その様にして魂からの私達は決して目覚めることなく輪廻の中を生きているのでありましょう。

 

 従って通常の私達の思考や行為とは(口から出るものとは)、私達が一体化してしまった記

憶の思考と行為だけであります。そしてそれは肉体にも害悪を与え続けているのです。

私達の思考や行為とは、それはまさしく自我エゴであり、悪臭と穢れと恐れと希望と絶望、評価、

善悪の判断、支配欲、嫉妬心などで一杯なのであります。

 

何故この私はエゴなのでしょうか?

それはこの私は目覚めていないからです。

それは私達は自他が分離していないのに私とあなたは分離していると知覚、認識しているからです。

そのように間違って知覚していることが即ち、記憶の反応である証拠です。と

外部は内部なのに、内部と外部を分離し、外部は私ではないと錯覚しているからなのです。

私は一切の万物と分離していないのに、私は万物と別々だと感じているからなのです。

世界は私で、私は世界なのに、世界中の人々の苦痛と悲哀は自分とは関係がないと思っているからな

のです。

そう思っている者こそが無知であり恐怖であり、苦しみであり、痛みである記憶即ちエゴなのです。

だから私達が目覚めていない限りはこの私とはエゴなのです・・・と覚者は言われます。

このような知覚認識をしているのは記憶であり、記憶は私ではありません・・・と。

 

 

私達である、魂と繋がる私の意識を占有しているものとはこの記憶であり、人格であります。

相手とは私であると教えられているのに相手を非難し、決して相手とは私であることを知らない

のは記憶・自我なのです。

だからこの私は〈世界を私と別に見ているので〉魂と繋がる私ではなくて自我なのです、

この私とは記憶なのです。

 

 そういうことで、私達の現況はといえば、私達は全く記憶と一体化してしまっているので、

そのこと自体に、全く気がついておりません。

私達の現在意識は記憶に殆ど全くと言っていいほど完璧に占領されているからです。


自分だと思っている私は記憶なのです。しかし記憶と一体化していても私は魂と繋がる私なのです。

この記憶の私は自他を分離して見ており、私とはあなただとは露にも思っていません。世界は私では

ないと実感しているからです。

私達が考え、感じ、行い、願い、思う事の全ては記憶が行っており、私達は記憶に占領さ

れています。

 

 それは私達の意識(神道での四魂・霊的諸身体)そのものが未開発・未形成で幼稚である

からであり、従って正しく思考し、正しく行為することが出来ないのですと言われております。

 

 では、正しい思考と、正しい感情と、正しい行為とは何でありましょうか?

 それは記憶と同一化しないことであります。

それは思考と一体化しないことでありましょう。

それは起こる事柄なのでありましょう。

鏡が太陽を映し出すように、私達である鏡に太陽が輝き出すのでありましょう。

 

では記憶と同一化しないとは何でありましょうか?

それは積極的に全力を傾けて全てに愛を与え捧げることでありましょう。

 

それはまた、同時に記憶が私達の思考と感情と行為を支配しているので

クリシュナムルティーの言うように必死に「思考なく見ようとすること」でありましょう。


何にも求めない。 

何も願わない。 

何にもなろうとしない。 

何も欲しない。 

何処にも行かない。

 思考と同一化しない。

何も思考しない。(思考とはその記憶の反応だからです)

ただ観る。

 何も思わない。ただ在る。

 何も望まない。

 全てを受け入れ、全てに感謝し、全てを愛すること

・・でありましょうか。

 

思考や感情や行為と決して同一化してはなりません。と教えられています。

ただただそれらの記憶の行う、「成る」「する」に同一化しないで

その記憶の私に対して戦ったりせずに愛を捧げることだと教えられております。

 そしてそれは恩寵によって起こると教えられているのです。

なぜならそれは目的や動機を持っている自我の努力では到達できないのです。

 

  ですからキリストが聖書で言う「口から出るものが人を穢す」と言っているのは、この意識・

鏡に去来している、起こっている記憶の反応に対しての「意識である私達自身」の態度のことを

言っているのでありましょう。これは霊的諸身体の有り様を言っているのでありましょう。

 しかしながらこの魂と繋がる私は殆ど意識されることがなく眠ってしまっているのです。

「なる」「する」という記憶の動きに対して、ただただ「在る」のが八正道なのでありましょう。

なぜなら「なる」「する」とは目的や動機や評価、判断と同じく思考の動きだからです。

 

私達が思考と同一化しないで記憶・思考から離れることが「在る」であり、それが正しい思考と

行為なのでありましょう。

 

 いま現在の人類はこの意識の座に起こって去来している記憶の反応と同一化しています。

それは私達の意識である諸体(四魂)が未形成であり使用されておらず、私達の穢れを浄めること、

そして私達である諸体を養うこと、諸体を成長させることをしていないからですと。

 

私達は私達の幸身魂や奇身魂を成長させることをしていないのです。

従って正しく見ることも出来ず、正しく思考することも出来ず、正しく自分自身であることが出来

ないのです。

 ということで私達は当然のことながら魂と繋がる私自分である意識と記憶の反応とを同一視してし

まっているからなのであります。

 聖者は、この意識の座(鏡)に去来する記憶の反応に対しての私達の現在の態度とは、記憶と

同一化をしている状態であり、それこそが自身を穢しているのである言っています。

 

 それはまた、黒住宗忠のいう「それ人の心は天照大御神の御分心にして我が心にあらざれば、人の心

を傷むるとは天の心を傷むるなり、人の心を養うとは天の心を養うなり」であります。

天の心は我の心によってはやってきません。我の心が完全に停止したときに、恩寵として

それはやってくるのだと言われております。


黒住宗忠とは四魂の大元である直毘・直日・直霊が顕現しておられる至高・至聖の方であります。

黒住宗忠は「立ち向かう人の心は鏡なり己の姿を映してやみん」と私達に真実を伝えております。

 この言葉を正しく理解するには私達が直霊と一体になっていなければなりませんが、そこまでい

かなくても私達は霊的諸体の高次の知覚、認識の心を使い、正しく思考し、正しく念じ、正しく

祈り、正しく行ずることも出来るのであります。

正しく思考し、正しく念じ、正しく行うというのは、何にもならず、何も求めず、何処にも行かず、

全てに感謝し、全てを受け入れ、あるがままの一切万物すべてをただただ愛すると言うことでも

あります。

 

それはとりもなおさずありがとうございます、愛しているよと間断無く念仏することであります。

 その黒住宗忠という直霊とひとつになった方の立場から見れば、私が見ている相手・対象とは私自身

の姿なのでありましょう。

私を殺そうとして襲いかかっている敵とは私自身なのですと、私の前にいる化け物や敵意のある悪人

とは私自身なのですと。会社や家庭や近隣のどうしようもないその最悪の相手の人とは私なのですと。

相手とは私自身なのですと、そのように知覚していることでありましょう。

ですから相手を変えるのではなくて自分を変えるためには私は私自身を愛さなければなりませんと。

何故なら私とは目の前のあなただからですと。

 

 私達は未熟ですからその真理を理解出来なくても、正しく信じ、正しく思考し、正しく念じ、正し

く祈り、正しく行うことは出来るのであり、それをワークする必要があります。

その一つの方法が言霊を使う念仏であります。正しい祈りと正しい信仰であります。

「御免なさい、許して下さい、愛しています、ありがとうございます」と一切万物にただただ感謝を

捧げることであります。

 

 本来の私達とは「意識と言う鏡」に去来している思考や行為をしている私では決してないのだと、

私達はそれらを観照している観照者であり、空なる意識であり、鏡であり太陽(天照御祖神)を顕

す意識そのものであると言われております。


であるので、その直霊と一体になる事は恩寵によってのみ可能なのですと言われているのです。

しかし、 悲しいかな、私達意識は記憶と一体化して自分を穢してしまっているのであります。

 

では一体どのようにして毎日を生きれば良いのでありましょうか?

 聖賢方は、私達に対して「汝の敵を愛せよ」と、記憶に対して私達の持っている正しい思考と正しい

行為を使い、愛をもって接するように私達に対して教えておられます。


 この記憶に対しての態度・・それは記憶と同一化してしまうのか?それともその記憶を浄化するために

その記憶を愛するのか?その選択が意識としての私に求められているのですと。

 

 記憶と一体化して、自分を傷めてしまうのか?それとも自分を成長させ正しい思考と正しい感情と正し

い行為を養うのか?霊的諸身体を成長させるのか?

  

では記憶に対しての正しく思い行うとはどういうことなのでありましょうか?

 それは内と外の全ての全てを、有情無情の一切を愛し、感謝を捧げることでありましょう。

  

その愛とは受け身ではなくて積極的な愛の行為なのであり、積極的な意識の行使、正しく思考を使用

することであると言われております。

  

それは全ての一切を愛すること、記憶に対して愛を与え捧げることだというのであります。

万物に感謝し万物を愛し、自己に感謝し自己を愛し、肉体に感謝し肉体を愛することであります。

 

 通常では、私達はその記憶の反応である私・人格と一体化していて、常に相手や世界を対象として

知覚しており、自分はその相手・対象とは別の知覚主体である・・・とその様に全てを分離分割し

二元の知覚認識をしております。そして私達は恐れ、憎んでいるのです。

・・・それは私達魂と繋がる私ではなく記憶の反応だからなのです。

 

記憶である私達は見る者と見られるものは当然別々の存在だと確信しております。

肉体も自分の肉体であり、自分の対象として肉体を観察しているのは記憶であることを知りません。

私達魂と繋がる私とは肉体を生かしている大生命と同じいのち=神の子なのですと。

それなのに自分はいのちではないと信じ込んでしまい、自分は生まれてきた、そして死ぬのだと

当然そのように思っておりますが、それは記憶であり、記憶の無知と一体化していることに気が

つきません。

 

そういうことでこの魂の高次の知覚によれば、対象を二元的に見ている現在の私達のこの知覚と

は記憶・人格の知覚であって、高次意識による正しい知覚ではないというのです。

 

それをクリシュナムルティーは「見るものは見られるものである」と教えておられます。主体とは客体

であると。私はそれであると。私は世界であると。

 

またクリシュナムルティーは「恐怖を見ているものは恐怖であり、そのことを理解している中に愛が

現れる」と言っております。クリシュナムルティーは「見ている観察者を見なさい」と言われている

のであります

 

これは相手を見ている私とは、その相手であり。私がその悪を見ているのではなくて悪が私だと言う

こと。

それは同じく私が世界を見ているのではなくて世界が私であると言うこと。

私が敵を見ているのではなくて敵が私であると言うこと。クリシュナムルティーの目には

分離がないのです・・それは記憶という自我が終焉しているからでありましょう。

 

 同じようにヒューレン博士は癒やしについて

相手とは自分が投影しているのですから相手を癒やすのではなくて、私を癒やすのですと教えておられ

ます。世界を変えるのではなくて、世界は私の投影なのですから私を癒やすのですと。

クリシュナムルティーと同じ事を教えておられるます・・・これらのことがらは、二元分離という記

憶の思考によって完全に支配されてしまっている私達人類には思った事もない突飛で非常識な考えの

ように思えますが。この真理こそが

内なる魂の目からの観ている現実・真理なのでありましょう。 

 

では、もし「私達の知覚は記憶でありそれは無知であり、錯覚なのである」というこのことを頭だ

けではなくて、

ヒューレン博士のように本当に腹の底から理解しているならばどうなるのでありましょうか?

「虚偽を虚偽と見ることの中に真理はある」とはクリシュナムルティーの言葉です。

この正しい知覚それ自体が記憶からの解放を齎すのではないでしょうか。

 正しい知覚とはクリシュナムルティーのいう「思考なく観る」と言うことから齎されることであり

ましょう。

また、「この記憶の人格の私とは私ではない」と正しく知覚しているのは誰でありましょうか?

それは即ち・・・これら虚偽を虚偽と見ているものは誰かと言うことでもありますが。

 それは当然、虚偽を虚偽と見ているものとは虚偽ではあり得ず、それを看破して観ているものとは

記憶の反応ではない意識、四魂の意識を超えた大元の直霊であることでありましょう。

エレブナ的に言えばコーザル体を介した霊魂の意識なのですと。

それは魂と繋がる私・観照者の意識なのでありましょう。

虚偽を虚偽と見ているものは記憶の反応ではない高次の意識。それは働き出した意識の座・鏡である

霊的諸身体の意識なのでありましょう。

観察者を観察しているものは魂と繋がる私であることでありましょう。それがあるがままを

あるがまままに観ている観照者でありましょう。

それは記憶が産み出した人格の私ではない魂と繋がる私でありましょう。

 これが魂と繋がる私の意識であり、朧気ながらも徐々に自分自身に気がつき始めている意識自体で

あることでありましょう。

 神道で言う四魂が形成され始めたのであります。

 

ここでこの正しい高次の知覚からの真実をクリシュナムルティーは「観察者は観察されるものである」

と言っています。観察者を観ている観照者の目でありましょう。

そして「見るものは見られるものである」と言っております。

それは、私は全てのものと一つであり、私はあなたであると言うこと。

主体は客体即ち対象であると言っております。

「私は世界である」と言っています。・・・これは魂の根源からの真理でありましょう。

 

 ヒューレン博士もクリシュナムルティーと同様に世界は私の中にあり、世界とは私の責任だと言っ

ているのであります。・・世界とは私が作り出したからですと。

 相手とは自分の責任なのです。と

 

 両者はともに「見るものは見られるものである」と言っております。

この「正しい高次の知覚の中には私は存在していない」と言うのです。あるがままがあるがままにある

と言うのです。

 これは主体と客体、私が見ている相手や対象は一つであると言っているのでありましょう。

その「恐怖を見ているものは恐怖であり、恐怖が私である」という不二一元の目が顕現して

いるとき・・そこに愛があるのですと、クリシュナムルティーは言います。

分離がないとき、「見ている私と見られている対象の分離がないとき、それは愛なのです。」と

 ・・・この超知覚は魂の大元による高次知覚なのではないでしょうか。

 

 この高次知覚とは超意識であり、それは五感でもなく超五感(超能力)でもなく、バルト界やアスト

ラル世界やメンタル世界での知覚でもなく、それらを超えているさらに高次の超知覚なのでありまし

ょう。

この超知覚認識とは、いうならば神道でいう天照大御神の御分心である一霊・直毘・直日の知覚認識

なのでありましょう。

この目で観るとき、世界は神のみであり、愛そのものであり、完全完璧なのでありましょう。

 

 この思考ではない意識に対してミルダッドは以下の様に教えておられます。 

ミルダットは言います

 「憎まないことが愛することではない、〈愛〉は能動的な力だ。 

〈愛〉が動きと歩みのすべてを導かないかぎり、自分の道を見いだすことは

 できない。

 そして〈愛〉が願いと思考のすべてを満たさないかぎり、

願いは夢の中で刺草となり、思考はあなたの日々の挽歌となるだろう。

 そして愛することとはなんだろうか 

愛する者が、愛する相手に永遠に吸収されて、 

二者が一体となるのでなければ」