神は全ての人の中にいます。
もし、このことを実感として分かれば
私達は全ての人を抱きしめることでしょう
・・影としての表れが何であれ。
叡智の言葉より
私の感想
この言葉は前回掲載の言葉と合わせ読むと意味がハッキリして
くるように思われます。
それは「実際に見ている他人とは私自身なのです」
「私達が見ているその相手とは私自身なのです」
「私達は決してジャッジしたり批判したりすべきではありません
様々な人達を見るとき実際に私達が見ているのは
私達自分自身なのです」・・これはまるで黒住宗忠の言葉のようです。
・・この言葉は常識では絶対受け入れられないし、この言葉では
司法や裁判や教育、法律そして文明そのものも成り立たないこと
でありましょう。
この言葉は人類の文明の観点からは想像も理解も出来ない最高知
覚の段階からの言葉であることでありましょう。
この言葉は私達、通常の知覚や認識ではない、高次の超知覚、高次の
認識なので、私達にとってはそう思うことそのものが不可能なのです。
信じるほかにないのであります。
私達が根本的に変革されていない限りそのように知覚することは出
来ないでありましょう。
他人を他人として知覚して非難しジャッジしている私達の知覚とは
真実の知覚からすれば、虚偽であるのでありましょう。
私とあなたは分離していないからです。
私もあなたも、全ての一切が神の子の私であるのにもかかわらず、
黒住宗忠のいう「我の心」に混濁してしまっているので、私達は
その現実(私達にとっては非現実)を見ることが出来ないのであ
りましょう。
その「我の心」とは全人類で同じであり、全ての人が同じように「私
とあなたは異なり別々だ」・・「私はあなたではない」とそのように
知覚しております。
私達は「我の心」と一体化しているので
私達は「我の心」に束縛され支配されていているという現状に全く
気がつかないのでありましょう。私達は自由ではないというこの
現状に全く人類は気がつかないのであります。私達を覆い尽くし
ている「我の心」に私達は気がつかないのであります。
そして、社会が、文化文明が「我の心」によって支配され、その
知覚が常識となり、それに私達は同一化してしまっているのです。
真実は、私達の心とは黒住宗忠のいう「人の心とは天照大御神の御分心」
なのであって「我の心」ではないのにも拘わらず、私達はその「我の
心」がしているように感じ、思い、考えています。
感じ、思い、考えているのは「我の心」という記憶であるのに私達は
それを自分であると確信してしまっているのだと仰るのです。
「我の心」と一体化しているのが私達であります。
その「我の心」によって混濁している意識状態が私達の心であります。
その神の子である私達の心が「我の心」と混濁していて一体となって
しまっているのでその束縛から自由になることが出来ないでいるので
あります。
私達は「他者を私ではない他者として見ているものは私達の中に有る
その我の心である」「自と他を分離しているのは私達の中に有る
その我の心である」・・・このように私達は神の子なのに、我の心と
一体化してしまっているのであると賢者は教えておられます。
私達には賢者の言葉を理解することが出来ないのです。何故ならば
私達の目は閉じたままなのでその高次の目の知覚認識がないからです。
ここでそれが人類として決断しなければならない一大事があります。
それは
私達が理性と知性を駆使してこの未知なる私を私だとして信じ、
今のところは現在のパーソナリティーにとっては全く理解出来ない
けれども、この本来の私を私として生きるのか、それとも既知なる
この「我の心」即ち恐怖を今までと同じように私として生きるのか
であります!!
もし私達から「我の心」がとり祓われ、心が清まっているのならば
私達はこのエレブナが言うように
「神は全ての人の中にいる・・影としての現れが何であれ」。
との実際の知覚が発生しているのでありましょう。
そして「実際、私達が他者として見ているのは自分自身なのです」を
理解することが出来るのでありましょう
がそれまでは私達は理性に基づき、確信に到達し、確固たる信念を持って
「未知なる本来の私」を私として生きるのであります。
現在の私達にはその本来の目の開花はほど遠いことなので
私達は今まで通りのこの分離と分割の私として生きるのか
それとも、多くの賢者達の言葉を信じて、自己否定の道を
歩むのか(自己否定の道とは真実の自己の肯定の道であり
万物一切に感謝し、万物を愛すること、愛に全てを捧げる
ことであります)でありその決断を迫られております。