あなたは自分の肉体をどこから観察しますか?
あなたは身体のなかにいますが、同時に、頭の後
ろにいて、生じていることを観察しています。
眠っている時にそれを行っていますが、今でもそ
れを行うことができます。
あなたは自分の背後の離れたところから自分の身体
を見て、観察することができるのです。
それは意識の投射です。
・・ある叡智の言葉より
私の感想
この文章は
私達とは肉体ではなく、肉体の脳が受け取り発信してい
る思考でもなく、その肉体と思考を見ている意識なので
ある。・・・とその様に言っておられるのだと思われます。
私達とは肉体ではなく
また肉体の脳の記憶が受信し発信している思考でもなく
それらである欲望、判断、評価、喜怒哀楽、動機などが
来ては去っていく、鏡である透明なる意識なのでありま
しょう。
では、脳が受信し、発信している思考とは何でしょうか?
思考とは見る者であり、同時にその見る者によって見ら
れている者なのではありませんか?
思考とは観察者であり、その観察者によって観察されて
いる者なのではありませんか?
それが記憶なのではないでしょうか?
しかもその記憶とは、脳の構造や機能とは全人類で全く同じで
あるように、全人類で全く同じ構造で、且つ「独自性を付与さ
れている」ものなのではないでしょうか?
個人の特徴ある特色ある個別性、各個人で異なる指紋や才能の
違いなどそのものとは、付与されているものなのです。
そしてその人類で一体の記憶が「私は個人であり、他の人や物
とは全く別だ」「私は個人だ」とそう確信しているのではあり
ませんか?
しかしながら、「自分はこの個人で他人とは異なっているとその
様に信じ込んでいる私こそ
人類で全く同じひとつの記憶なのではないでしょうか?
それらの誤って自分自身だと錯覚してしまって いる記憶が
「意識の座」に現れては去って行く思考のことでありましょう。
即ちそれは感情や欲望、判断、評価、五感覚、私という観念な
どでありますが、
それらは私達ではありません。
私達とはそれらではなくてそれらが投影されている「場」という
「意識の座」「意識という鏡」「意識のスクリーン」なのであり
ましょう。
私達とは意識の鏡即ち意識というスクリーンであり、その
スクリーン・鏡に映っている思考や五感や感情や欲望では
ありません・・・と。
だからその意識という鏡の穢れを祓い、汚れを取り除き
意識を綺麗にして、意識を育てなさい!!
あなたはその記憶と同一化し一緒になり、混濁してしまって
いても、あなたは記憶ではなく意識なのです!と
「鏡に映る姿、そのままを見つめていると
次第にその姿がゆっくりと変化していくのがわかるは
ずである。鏡に映る自分の姿が変わるにつれ
からだもこころもたましいもゆっくりと変化する
あなたの心に映る変化を細部にわたって
少し気をつけて見つめてごらん」
・・と仰っているように思われるのであります。