話すことも考える事も止めなさい。
そうすれば知り得ないものはなにもない。
真理を追い求めてはならない。二元的な分別に囚われて
僅かでも是非、善悪を区別すれば、心の本質は失われて
しまう。
・・中国禅 第三祖 僧璨鑑智禅師
思考なく見なさい!!
私なく見なさい!!
思考なくあるがままをあるがままに見なさい!!
・・クリシュナムルティー
誰が見ているのですか?見ているのは誰ですか?
見ているものは記憶であり、記憶とはあなたではありません。
誰が思索しているのですか?思索しているのは誰ですか?
思索しているは記憶であり、記憶とはあなたではありません。
誰が話しているのですか?話をしているのは誰ですか?
話しているのは記憶であり、記憶とはあなたではありません。
誰が聞いているのです?聞いているのは誰でしょうか?
聞いているのは記憶であり記憶とはあなたではありません。
誰が行っているのですか?行っているのは誰ですか?
行っているのは記憶であり、記憶とはあなたではありません。
記憶・・それはわたしではありません!!
誰が知覚しているのですか?知覚しているのは誰でしょうか?
それは「脳のシステムが生み出した思考の記憶」なのであって
その記憶のことを、肉体の脳と結合したあなたはその記憶で
ある思考を自分だと錯覚しているのです!!
あなたは記憶ではなくて、意識、聖なる魂なのです!!
思考なく、記憶なく、在りなさい!!
・・・(ヒューレン博士の意訳)
私の感想
以下の感想は私の現実のレベルではなくて、単に私の考えを述べたものです。
・・・
「私にはクリシュナムルティーの言うように思考なく見ることなど出来
るわけがないでしょう」
と、思考し呟いているのは誰でしょうか?
それこそが思考なのではないでしょうか?
思考と同一化してしまっている私(意識・マインド)は
「私には思考なく見ることなど出来るわけがない」と思い込んで
いますので、クリシュナムルティーから「思考なく見なさい」と言わ
れ続けているのにも拘わらず、自分自身のことを「私は思考であり感情
なのだから思考なく見ることなど出来るわけがない」と自分を記憶と一
体化してしまっているのであります。それは私の諸体(四魂)が未発達
で意識・マインドが機能しておらず、思考しか知らないからでありまし
ょう。
このわたしとは、自分を忘れ果てている「未発達な神の子の私」であ
ることでありましょう。
ですから「思考なく見なさい」といわれているのに実行しないのはだれで
ありましょうか?
クリシュナムルティーの「思考なく見ること」などは出来るわけがないで
しょう、と思考と一体化しているのがこの未発達な神の子の私であります。
未発達の意識・マインドの事であります。それは自分の高次思考体や高次
感情体が機能していないので思考ではない意識というマインドを知らない
からです。
自分は意識であり、マインドを使用することが出来るのに、記憶の思考の
奴隷になってしまっているのです。
(私はコーザル体の先端部分の私・意識マインドの私)なのでありまし
ょう。
この私こそが思考と一体化し思考のことを自分だと錯覚してしまっている
のであります。そしてこの私こそ魂と繋がっていることを忘れ果てている
この現実の私なのではないでしょうか。!!
そして、私とは意識であるのに、この意識マインドは思考と混濁し坩堝
状態なのです。
ここで最大の注意が必要となりましす
私は神の子なのですが目覚めていないので
今ここに意識している私とは「記憶」「エゴ」であるということです!!
記憶エゴがこうして書いているのです!!
何故ならば私は眠っていて目覚めていないからです!!
では、上記の賢者達の言葉を情報として知識化し記憶しているのは誰で
しょうか?
実際には神を信じてもいないのに「自分は神を信じている」とそのように
思い込んで、実際には何も理解していないのに「自分は真理を知っている」
と錯覚しているのは誰でありましょうか?
それは理解しているのはなくて単に機械的に半導体のように記録して
いるのであり、それは単なる記憶なのであって、それは全く理解して
いるのではありません。それは脳というコンピュータの記憶です。
そしてこのコンピュータの記憶が
今のこの私なのです。
何故ならばたましいと繋がる私は眠っていて目が醒めていないからです。
この私・記憶は、真理を全く理解していないのに、その真理の言葉や情報をテ
ープレコーダーのようにただ単に情報や知識としてだけ繰り替えし
ています。
それは記憶・エレメンタルなのではないでしょうか。私である意識・
マインドはこの記憶によって占領されているのです。
賢者の言葉を知り尽くし徹底的に哲学し、それなのに全く実行しないの
は誰でしょうか?
それはこの魂と繋がる私です。そしてこの私はその思考・記憶・エレメン
タルを自分だと信じ込んでいます。全く疑ったことがありません。
何故ならば私達は未だ眠り続けていて目がさめていないからであります。
未だに自分は思考ではなくて意識であるのに、自分は思考だと思ってい
ます。・・それは諸体が再形成されておらず意識が目覚めていないから
です。
記憶、それこそが私達意識を覆い尽くし、私達が自分自身だと錯覚してしま
っている「脳のシステムが生み出した思考」なのでありましょう。
では改めて私が私に自問自答しますが・・この私とは誰でしょうか?
①私とは肉体なのでありましょうか?
⇒私が肉体に入ったのであり、肉体は神聖なる神の宮です。肉体は私では
ありません。瞼の開閉、心臓や血液の循環、呼吸、消化と排泄、DNAの
創造と維持、人種、性別、才能と障害、指紋、個体毎の特性、能力の違い、
性欲や食欲、脳の働きとその管理、好きや嫌い、快楽と苦痛、各臓器の
働き、筋肉と神経系、エネルギー系のコントロール、記憶や思考や感情、
行為、視覚や触覚や聴覚などの五感の統覚とその維持、各細胞の増殖と
分裂などなどの全ては神が私達の肉体に対して行ってくださっているの
です。私が生きているのではなくて神が肉体と脳を使って生きておられます。
脳と肉体は神からの最大の贈り物です。
肉体の誕生も、成長も、病気も、健康も、老化も、死亡も肉体に入った
私達ではなくて肉体を創り維持管理し、そして死亡させることも神が行
っています。
この複雑で大変な作業を休まず行ってくださる神に感謝しか有りません。
②ではドッペルゲンガーは私でしょうか?
⇒それは勿論肉体に入って脳のシステムを自分だと錯覚した結果である
「人格であり記憶の私」が生み出した想念形態エレメンタルであり、それ
は私ではありません。記憶が生み出したエレメンタルです。
③ではその肉体に入った私が一体化している現在のパーソナリティー・・
「脳のシステムの結果である記憶の私=今生の人格の私」とは、わたし
なのでありましょうか?
⇒それが各個人の現在の人格・記憶です。脳が創った私・ヴァーサナの
事です。各条件付けられている脳が生み出した「私は私で個人だ」と思っ
ている記憶のことです。実際には個人は存在しておらず脳のシステムが
生み出した記憶=個人という人格があるだけです。
その私は脳と結合した魂と繋がる私ではありません。記憶人格の私は
私ではありません。脳の記憶の私です。その記憶の表層は個人的です
が深層部分は全人類で一体、同じです。
⇒その記憶それは私ではありませんが、自分の事を私と呼び、自分を
私自身だと堅く信じ込んでいます。しかしながら、その今生における
この人格の私とは、魂と繋がる私が脳と結合し、脳と一体化した結果、
私が産みだした私、記憶なので、その人格・現在のパーソナリティー
とは私には全面的な責任があります。
④ではアストラル体やメンタル体という諸体は私なのでありましょうか?
⇒諸体の私は私を構成している私の一部であり、高次の思考、高次の感情
ですが、輪廻転生をしている私そのものではありません。その諸体は継
続され転生の度に新たに継続して準備されるからです。
⇒サイコノエティック体などの諸体は輪廻転生している私の現在のレベ
ルを示しています。神道で言う「私達である一霊四魂」の四魂のことです。
⑤では私とは何なのでしょうか?
⇒私とは黒住宗忠のいう天照大御神の御分心であり鏡です。鏡に映っている
私・心ではありません。
この鏡に映っている「記憶=我の心」「自分を肉体だと思っている私・個人」
は鏡に映っているものであり、鏡それ自体なのではありません。鏡が私です。
⇒私とは一霊四魂であり、今のところは私は目覚めていませんが、意識・鏡
でありマインドなのです。この私とは輪廻転生をしているわたしであります。
(通常輪廻転生していると思っている私は死後も継続している「記憶」です。)
転生している私、それはコーザル体の先端部分と言われている私です。
魂と繋がる私です。
私は肉体でもなく、肉体を私と思っている記憶でもなく、魂と繋がる私
なのです!!
⇒この魂と繋がっているのだが未だに未熟で目が覚めていない私。
眠ってしまっているけれども神の子の私が私です。
以上が私の持っている自分自身に関する意見です。
以上の事から
見て知覚して判断しているのは記憶なのであって私ではないのであり
ましょう。
考えて選択し行為しているのは記憶であって私ではないのであり
ましょう。
脳が生み出している記憶・思考は脳が眠ると一緒に眠りますが
私達である魂と繋がる私の意識は、脳の思考ではないので脳が眠っていても
眠ることはないことでしょう。
黒住宗忠が言われているのは私達は記憶という、目的を持ち、善悪に
分類し、自分と他人を分離し、常に評価している「我の心」ではなく
愛と感謝と喜びに溢れている神の子なのであるということなので
ありましょう。
そして、その事実への理解が訪れるためには「ありがとうございます」
「浄めたまえ」「祓いたまえ」「愛しています」と常に唱え続けるのですと。
教えられています。