行為者はいない、行為が起こっているだけだ


・・クリシュナムルティー



私の感想

この私にはクリシュナムルティーのことを話す資格もないし、この言葉を
全く理解することが出来ないこの私が話すことで、読んで下さっている皆
様に誤解を与えるであろうことを分かった上で読んで戴ければとおもいます。

それは条件付けられている頭脳からの言葉や思考や知性では、想像するこ
とも、思いを馳せることも、接近することも出来ない超現実・実相のこ
とを五感ではない超意識の知覚でクリシュナムルティーは話しているのです。

脳が時間と空間の知覚を成立させ、自己と他己の二元性の認識を発生させ
ておりますが、彼の語るのは時間や空間を超越した「真の超現実」であり
その「真の超知覚」は条件付けられた脳による五感や知性や理性思考では
全く接近することも理解することもできません。

このクリシュナムルティーの言葉を理解するためには、脳が齎している脳の
知覚や意識ではなくて、諸体との私達の意識の繋がりが回復していなければ
なりません。その諸体の意識は「気絶時」「熟睡時」にも影響を受けること
がなく、脳の機能は停止していても、意識と諸体(魂ではない)の繋がりが
あるので、その知覚は肉体脳が気絶しても意識には影響を受けないというのです。

クリシュナムルティーが語り指し示している現実とは脳を生みだし、私達
を生み出し、支え、生かし、万物を維持している根源・源泉からの直接の
メッセージだからでありましょう。



違う角度からこの言葉を思索してみました。
クリシュナムルティーのこの言葉とは、どの私からの言葉でありまし
ょうか?私達を構成している魂からの私からか、または諸体からの私
からか、そして肉体に入って頭脳と一体化した結果生じている記憶の
反応である私からの言葉であるのか・・
それを認識することが肝要であると思われます。彼の言葉とはそれら
どの私からの言葉なのかを知ることがはじめに求められるのだと思わ
れます。
しかしこの言葉は非常に危険でもあります。その高次元からの目の崇
高なメッセージを、エゴとプライドに満ち、単なる記憶の反応でしか
ない未熟な段階でしかない未熟な自称求道者が、低次元のままその言葉を
自己流に額面通りに受け取り「行為は起こっている」という言葉を好き勝
手におこなうのだと自我を正当化しまう恐れがあります。

世間や家族や妻や夫に対して放縦・無責任な行動をして害悪をまき散らし
ている様を見ると聖者の真理の言葉も、真逆の悪影響を与えてしまうことの
恐ろしさを感じるのであります。

ラーマクリシュナは行為は神がしているのだが、自他の分離の知覚が残っ
ているものは、その行為の責任がある。従ってカルマを創ることになる。
と言っております。

「私はあるがままをあるまま生きている」「全ては完全完璧」「すべては
一つ」などと自分が暗黒の泥まみれに潜在意識の記憶に振り回されている
だけなのに、それを自己正当化し悪行を繰り返し、害悪をまき散らし、更な
るカルマを重ねてしまっているのを見ると、賢者達の言葉を最低レベルに
いる凡人が間違って捉えることの恐ろしさを感じるのであります。

私達の通常の表面意識で意識し、意識されている私といえば、それは魂
の私でもなく、諸体の私でもありません。それは記憶の私であり、肉体
に一時的に宿り、その肉体脳から派生した「人類共通の条件付けられて
いる脳のプログラム」のことでありましょう。

肉体に入り脳と結合した私達はこの脳のプログラムによって動かされ
ています。プログラムがするように見て、聞いて、話し、感じ、欲し、
願い、思い、判断し。選択し、行ってしまっているわけです。
私が見て聞いて話しているのではなく脳のプログラムが話して聞いて
見て判断し思考しているのです。そこには私も誰も関与しておりません。

私が考えているのではなくて、脳の記憶が考えているのです。

脳とは大自然の最高傑作であり、スーパーコンピュータPCであります。
そしてそのPCはウインドウズと同じように全人類は皆全員が同じの基
本ソフトによってプログラムされ動いております。

コンピュータと同じく見て、聞いて、話して、思考して、感じて、行為
しているのは脳であり、脳の基本プログラムなのです。

そして肉体に入り脳と結合した私達は脳の思考を自分の意識だと錯覚し
てしまったのです。私達は思考ではなくて心であると教えられております。

ですのでこの表面意識の私とはこの条件付けられている脳から形成され
た記憶の反応のことでありましょう。

何故ならば諸体は未だ形成されておらず、諸体の意識といえば未だになく、
まして七つの燈台も点灯されていないからだといわれております。
魂の意識があるならばそこには愛と喜びと笑顔が絶えないことでありましょう。

しかしここで語られているK(以下クリシュナムルティーをKと表記する)
のこの言葉は私達の魂の最内奥からの「真の私」からの言葉であると言う
ことができるのでありましょう。

Kの「思考者はいない思考があるだけだ」「行為者はいない行為があ
るだけだ」を発しているステートとは、現人類の段階である条件づけ
られている脳が受信して造り上げている「記憶」の反応の私のステート
ではまったくありません。諸体の意識でもなく、分離のない魂の意識
なのでありましょう。

しかしながら何故彼は私達に対して、私達が理解出来ない事を語りかける
のでありましょうか?

それは私達とは記憶の反応なのではなく、私達には可能性が有るからです。

現在の私にとっては全く自己否定である「思考なく見なさい」というのです。
しかしこの思考を超えた意識こそが本来の私であることでありましょうか。

それは私達とは、どの民族のどの運命を持った人生を生きるのか、どの両
親でどのようなカルマに従って形成された肉体やエーテル複体や未形成
の諸体に誕生するのかという高次の意志によって決定された、その母胎の
新生児に対して
その胎児がへその緒を切断されて初めてする呼吸で肉体と繋がった大生命
であり、霊魂であり、その霊魂のコーザル原子(輪廻転生している本体)
であるからであります。

その眠れる神の子、可能性のある私が私なのであります。そのわたしこそが
現象界で輪廻を重ねながらも成長をし続けている神の子である「本当の私」
でもあるからです。

そしてその輪廻を続ける特定の個人・人格群を統括するコーザル原子の私、
その「彷徨える魂」に対して彼は語りかけているのであります。
今は記憶と一体化しまっているが、本来は神の子である、その魂と繋が
る私に対して彼は語りかけているのであります。
あなたは意識であり思考ではないのであるから「思考なく見なさい」と。

その記憶と一体化してしまっている魂と繋がる私は、エレメンタルを創造し
記憶に従って記憶と一緒に行為し思考してしまっています。そしてカルマ
を生み出し続けています。
しかしながら本来の私とは意識であり、行為や思考ではないというのであ
ります。しかし残念なことにこれを書いているこの私は記憶の反応と完全
に一体化していて意識の事は何も分からないのであります。


それゆえにその記憶ではないが未熟な私に対して八正道が説かれ、正しく
見ること、正しく行うこと、正しい修行・実践が説かれているのです。

一見するとそれは記憶による記憶の行為に思われますが、そうではないのです。
それは記憶にまみれた魂と繋がる私(現在のパーソナリティー)が記憶から
解放され自由になるために必要な私達の為の修行であるからなのです。


それ故に彼は私達である「未熟な段階の魂と繋がる私」に対して語り
かけているのであります。「思考なく見なさい」と。

もし、その私が存在しておらず、ただ単に脳の記憶の反応だけである
のならば、わざわざそのように言う必要性もないわけであります。

しかしここで記憶の持っている特質に関して述べる必要があります。
記憶の反応にとっては行為や出来事に対して参加することは出来ません・・
それは「記憶」であるからです。出来事は必然に従って正確に起こるよ
うに起こるのであり、記憶がその起こっている出来事に対しては参加し
たり変えたりすることは出来ず、記憶には反応することしか出来ません

しかしながら脳にある記憶は自分が決断して行為したと錯覚するのです。
記憶には毎日のこれらの起こっている行為や出来事に関与したりする
ことは出来ず、出来事や行為が起こった後に反応し、その反応している
ことが出来事に参加していると錯覚しているのであるというのであります。

起こっている事とはミルダッドによれば、良い事も良くないことも、一秒
の狂いもなく正確に、「全知の万能の意志」により決定されいて、その人
に起こっているのであり、どれを受け入れたり、どれかを拒絶したりせず、
すべての起こってやってきていることに対して感謝と愛を捧げ、一切を受
け入れなさい!!
有り難く受取なさい!!と教えておられます。

その起こっている良い事と良くないこととに対して
記憶は「自分が行為している」「自分が選択し、決断し、決定したのだ」
と確信していますが、事実は選択は起こり、行為が起こった後に、記憶が
その選択や行為を自分が選択し行為していると錯覚してしまっているので
あるといわれております。

Kの知覚認識はこの脳によって生み出された記憶の反応ではない知覚認識。
高次の意識による知覚認識なので記憶と一体化している私達(脳と一体化
している)には全く理解することが出来ないのであります。

社会の常識・・即ち条件付けられている脳から生み出された記憶の反応・・
それは脳が見ている脳内世界(即ち人々が知覚している内部と外部世界)・・。

その記憶は自分の事を私だと思っております。「私とは記憶だ」とは露にも
思っておりません。・・・しかし勿論、自他を分割して見ている私・・
この私とは記憶の反応なのであって私なのではありません。

最大の悲しいことと言えば、現在の私達は諸体が再形成されておらず、
従って諸体の意識も魂の意識も表面意識には顕れてはおりません。

この状態での、「私」という意識とはこの記憶の反応であり、この記憶
には起こっている出来事に参加したり、起こっている出来事を変更した
りすることが出来ないと言うことであります。
・・それは記憶だからです。


現在の表面意識での私達とは諸体の私でもなく魂の私でもないので、
条件付けられている脳によって形成された記憶(死後も存続する)の
反応であり、その記憶は自分の事を肉体だと思い込んでおります。

将来を心配し、癌や脳血栓や心臓病を心配している私とは、自分を
肉体であると信じてしまっている脳が生み出した記憶なのです。

私達の行為も思考も感情も、知覚も感覚も全てが条件付けられた脳が
生み出した記憶の反応なのでありましょう。

私達とは脳と一体化しており、記憶と同一化しているので、この記憶
以外の知覚や認識や高次の感情や、高次の思考があることを全く知る
ことがありません。この私以外の高次の私が存在していることを知る
事もありません。

さらにまずいことは私達は自分が脳と一体化してその記憶の反応のこと
を自分の反応だと信じ込んでしまっているのだということを全く知らな
いことなのであります。

記憶が肉体を支配して、記憶が思うように思い、記憶が行うように行
ってしまっていることに全く気づいていないことなのでありましょう。
(記憶はマーヤに使われているからでありましょうか)


それはとりもなおさず、この人類の意識とは条件付けられた脳が生み
出した記憶の反応であり、私達はこの私に覆い被さられ、私達は包み
隠されています。
この記憶、記憶の私から解放されなければ、生きているということす
言えないのでありましょう。


現段階の私とは私を覆っている記憶に他なりません。この知覚し認識し
思考して行為していると錯覚している私とは記憶の反応なのです。わた
しではありません。
そして
この記憶の反応が「自分はわたしであり、自分が選択して決断して行
為している」と錯覚しているのであります。

そしてこの記憶の私が見ている世界とは、見ている記憶自身の姿に他な
りません。記憶が見ている三界とは記憶自身の姿なのでありましょう。

三界は唯心の所現だと教えられております。

記憶が自分自身である記憶の世界を内部と外部において見ているので
ありましょう。
見ている私も見られている世界も私ではなくて記憶なのであります。

私達が世界を変えようとしている世界とはそれを見ている記憶の姿に他
なりません。

記憶が「私は個人であり、他者ではない」と思っているその人格なので
あり、その「自分は他者ではない」と思っている記憶自体が人類で一つの
記憶の想念帯でもありましょうか。
この現実を前にして、では私達は如何に生きるべきでありましょうか?

それは記憶である自らを浄化して、本来の私を輝かせることでありま
しょう。

そしてそれを行うのは他ならぬこの記憶の私、この記憶自身が
自らを祓い浄めて、懺悔し、愛し、感謝することなのでありましょう。

・・ついつい偉そうに語ってしまい申し訳ないです。

話すことでますます現実の私のレベルとの乖離を感じてしまってお
ります。

私は体験がないのに論理と思考だけで述べているだけです。