我と汝・・マルティン・ブーバー



私の感想

2023年あけましておめでとうございます
今年もよろしくお願い申し上げます。

けさ私が思いついたのはマルティン・ブーバーの「我と汝」という
言葉でありましたので。私の感想を述べさせて戴きます。

私達が自分だと信じて疑わないこの私、この私とは何なのでありま
しょうか?実はこの意識している私とは「私という観念の私」である
と言うのであります。そしてその私という観念の私には、「汝」とい
うものが存在していないというのです。日常生活で朝、ベッドから目
を覚ました私、実はこの私こそ「私という観念」であり、この私がエ
ゴ・自我だというのです。そしてこの私エゴには汝が存在していない
のですと。

これは、日常生活で自分の子供や夫や妻にそして会社や組織で毎日
顔を合わせている相手に対してこの「私・自我・エゴ」は「汝」として
接していないのだと言うことなのです。

その私という観念の記憶である私はあなたと面していても、あなたと
一緒に生活していても、この私にとってのあなたとは、それは「汝・あな
た」ではなくて自分のエゴの願望の対象なのです。エゴにとっての目の前
の人・あなたとは一人の人間・汝ではなくて自分が利用する対象なのです。
このエゴが見ているあなたとは・・それは、私達の常識では全く考えられ
ないことなのですが、とりもなおさず見ているエゴである私自身の姿なの
だと言うのであります。

私・エゴは自分自身を相手として知覚認識しているのですと、

その「記憶である私」にとってのあなたとは、あなたという人間なのでは
なくて私の願望を叶える相手に過ぎないのであって、その「記憶という
私・エゴ」の中には「あなた・汝」は存在していないのですと言うのです。

本当の私達である「天からの人の心」ではない我の心(記憶)・エゴ、その
エゴである私にとってはいくら親しくしていてもその目の前の相手とはエゴ
欲望や満足を叶える為の手段であるのです。その相手はエゴであるあなた
にとっての「汝」ではないというのです。
目の前の人はこの「記憶である私」には利用する相手、またそれを邪魔する
相手としての存在であり相手はそこにいたとしても汝はいないのです。
従って、その汝を知ることのない私とは、私ではなくてエゴなのであり、
エゴ自我とは汝を知る「私・吾」なのではありません。

その「私という観念のエゴ」が「全能の意志によって一瞬の狂いもなく、
定められ、間違いなく起こっているあらゆる出来事」即ち「あるがまま」
に反応しているというのです。

そのエゴが〈全能の意志によるカルマによって必然的に起こっている出
来事〉に対して思考と感情と行為で反応しているというのであります。

即ち私達が自分で為ていると思っている思考と感情と行為は実は記憶か
ら起こっているのであるいうのであります。

そして、その記憶という私にはあなた・汝が存在していないのです。

もし相手が汝であるのならそこには「吾・私・I AM」がいるからですと。

私達の表面意識を占領している潜在意識の記憶の私には汝は存在して
おらず、したがって当然のことながら穢され利己的な思考と感情だけ
があって、本来の吾・私からの正しい思考と感情と行為がありません。
記憶からの反応があるだけです。

毎朝、ベッドから目を覚ました私とは私を騙る我性・私・プライド・
エゴであり、それが私の表面意識を覆い尽くし暗くしています。

エゴの中には「あなた・汝」が無いのです。光がないのです。

(ここでマルティン・ブーバーが言う我とは「我エゴの心」のことではな
くて汝が顕れることによって明らかになる「人の心」吾のことであります)

私達の内面にあなたという汝が顕れるときに、はじめてエゴ・我の心で
はない吾・私があらわれてくると、マルティン・ブーバーは教えておられ
るのであります。

そしてその汝とは一切万物のことでもあり、一切万物の中に吾があると言
うのです。汝(万物)の中に吾があると言うのであります。

私達の潜在意識にあって私達の表面意識を占領している私という観念
の記憶とは我の心であり、人の心ではありませんと。

私達が見ている相手とは汝ではなくて自分自身の姿即ち「我の心」の
姿なのです。

その記憶である我の心にはあなた・汝がそして私も存在していないのです。

その潜在意識にある記憶というエゴにはエゴの思考と感情だけがあり
エゴはそのエゴの思考と感情を自分の中、そして相手に見ているのです。

そのエゴの思考と感情には「汝・あなた」が存在していないのです。
ここがマルティン・ブーバーの強調する「我と汝」の関係性であります。

日常生活で意識している私も、意識されている私も、即ちその観念の私
が見ているところのあなたも、私という観念それ自体のことであり神の
子の私ではありません。

私という観念が「自分自身である私という観念」を自分として相手として
見ているのです。
神の子の私とはその私という観念に覆われて包まれている「吾・私」な
のですと。

現在の世界の社会とは、この記憶エゴのことを自分自身だと錯覚している
文化、文明であり国家であり社会であります。この文明は汝が存在して
いないのです。

その「私という観念の記憶の私」とは「本当の私」ではなくて私
の潜在意識の中にある記憶の反応なのであるといわれております。
それがこの人格の私であり、意識の座を占領しているこの私の事
であります。
世間で私だと思われている私とは実は記憶の事です。

マルティン・ブーバーはこの私という観念の記憶ではない「私」とは
汝が顕れることによって知覚され意識されてくると教えておられます。

真の「私」とは「吾と汝」の関係性で成り立っているのだと言います。

即ちこれを彼は「我と汝」という言葉で表現しているのであります。

記憶に包まれ覆われている表面意識である本当の私は「我と汝」で
成立している「我と汝に分離できない」私なのです。と言われます。

マルティン・ブーバーのいう「我と汝」は分割不可能であり、汝が
あるところにはじめて吾が姿を顕すのでありましょう。

私達とは潜在意識にある「私という観念の私」その思考・感情ではなくて
汝があることによって顕現してくる吾・私であるとそう言っているのであ
ります。

そしてその「私という観念の私」も私の潜在意識の中にあり私の責任
であると言っているのでありましょう。

・・ここで言う「私という観念の私」とは全人類で同じ共通の
潜在意識の中にある「根本無明」「神聖なるマーヤ」のことで
ありましょうから。