「神のみが行為者であって、他のものは全て非行為者です。」


「私は行為者であり、自分の主人である・・という意識が

残っているのならば神を見ることが出来ません。」

「もしその自己というものがあるならば自己では

ないものもあるのです。」


「自我意識(我執)に惑わされた者は私は行為者だ

と考えます。」

「肉体が実際にあると言う意識がある間は、私とあな

たがあります。」

「いろんな意識が無知とよばれるものです。」

ラーマクリシュナ



私の感想

世の中の人、世界中の人は、まともな人ならば、みな誰でも「もし神が存在しているのなら何故こんなに
苦しみや残虐や戦争や悪が絶えないのだろうか?」「こんなに人々が飢えと虐殺と拷問で苦しんでいる
のに何故神は救ってくださらないだろうか?」「この世に神がいるのならば、何故神は人々を救ってく
さらないのだろうか」「ああ!神も仏もないのだ!!」

・・・・・との切実な叫び声が地球に充満しています。本当に神がいるのなら何故神は人々を救ってく
ださらないのでしょうかと!!

この現実を見ると世界には悲しみと苦痛と恐怖が充ち満ち、何故神は救いの手を差し伸べてくださらない
のかと、誰でもまともでかつ信仰のある方々は真剣にそのように思う事でありましょう・・。


「神のみが行為者で、他のものは全て非行為者です」・ラーマクリシュナは一体何を言っているのだろう
か??頭がおかしいのではないか??ラーマクリシュナは現実を見ないで「瞑想という麻薬」の中で幻想
を見ているのでないのか?・・・と誰もが思う事でありましょう。


そのように「神は死んだ!!」「神は存在していない!!」と叫んでいる声が地球に充ち満ちています・・・

しかし本当にそうなのでしょうか・・・神は存在していないのでしょうか?、それともこの記憶が
自己自我を投影して、その自分自身の姿を記憶が見て、そして記憶が嘆いているのでありましょうか?

一般人が思うようにラーマクリシュナは頭がおかしく幻想を語っているのでしょうか?
それともこの悲しみと苦しみを見ている私の方が未熟で思考しか働いていないので、思考が産み出して
いる幻想、即ち自分自身の姿を見ているのでしょうか?

残念なことに、肉体に入った私達はこの条件付けられている頭脳が産み出す思考しか知らないので、そ
の記憶の反応しか知らないのだということに思いを馳せることがありません。

だとすれば、私達人類がおかしいのか、それともラーマクリシュナがおかしいのかの何れかでありまし
ょう。

ラーマクリシュナは気が狂ったのでも麻薬や間違った瞑想の影響で幻想を語っているのではありませ
ん!!

私達地球人類全員が夫々の私を被っている「私という観念」が作り出している共同幻想を見ている
のです。

私達を覆い隠している記憶が、その記憶自身の姿を見て「何というひどい世界なんだ!世界を変えな
くてはならない」と叫んでいるのです。そのひどい世界とは自分自身であることを理解しないのです。
この現実とは人々のこの脳が作り出した記憶が見ている現実なのであり、脳が創出した映像です。
しかしながら、私達全員が見て知覚認識しているその仮想現実、それは条件付けられている脳が見
ている脳内世界であることを私達は全く理解出来ません。この世界を見てそして非難している私と
は、私が一体化してしまっている記憶、即ち私が産み出した記憶であることを全く理解していない
のです。


私達地球人類が見ているこの現実の世界とは外側も内側も含めて、条件付けられている脳が作り出して
いる世界であり、それは実際には映像であり、本当の現実ではないという事なのです。

この現実とは達の潜在意識に棲みついている記憶を映し出しているのです。
私が非難している相手とは、この記憶の私、人格の私、・・そして
またその記憶が知覚認識している世界とは私の記憶を映し出しているのです。

もし私達からこの私という観念の記憶である思考が停止したのならば
その「思考が取り除かれた目」には実際の本当の姿が見えているのだと
ラーマクリシュナは言います。
その目には苦しみと悲しみの世界は知覚認識されているはずがないのです。
そこには神が、そして愛という分離していない現実しかないのだとラーマ
クリシュナは言います。


この私達が「私という観念」を通してみているのは、私を覆い隠している私という観念が見ている世界
なのであって、それは私達を覆い隠している「その記憶」が見ている記憶の世界なのであり本当の現実
の姿なのではないということです。私がいないときそこに真実の私が見ている完全完璧な世界が有るの
ですと。

それをクリシュナムルティーは記憶が記憶の姿を見ているのである。と言います・・・「見るもの
は見られるものである」と言っています。ヒューレン博士は「世界は私であり、世界の責任は
私にあります」と言い。黒住宗忠は「立ち向かう人の心は鏡なり己の姿を映してやみん」
と言い、ラーマクリシュナは「神だけが行為者であって他のものは全て非行為者です」
ミルダッドは「愛とは愛する者が、愛される相手に永遠に吸収され二者が一体となる」・・・
とそれぞれの時代背景や特性に従って同じ事を異なる観点から言っています。


結論として、私達は自分を個人だと信じ切っておりますが、実はこの私とは本当の私である鏡を覆い
隠している地球で同一の記憶なのです、その私という観念の記憶が、自分自身を内部と外部に分割し
投影して世界と自分自身を知覚認識しているのであり、地球人類の私達が見ている世界とは人類の
共同幻想即ち私達の内部にある記憶が見ている記憶自身の姿なのです。
私達は深く深く束縛されていて全く自由がないのです。私達は私という観念と一体化して自分が肉体
であり誕生日に生まれたと思い込んでいます。
そしてその記憶に束縛されていることに全く気がついていないのです。気がついていないだ
けではなくて気がついている人、覚醒している人々を軽蔑し、非難し、無視してしまうのです。

私達が知覚認識している、この世界の虐殺と拷問と悲しみと苦しみと恐怖とは自分自身(自分を被って
いる記憶)の姿なのです

ラーマクリシュナの「全ては神であり神以外には何ものをも存在していない」との言明は
至高なる実在からの恩寵によって彼の中から記憶が取り祓われ、魂の目と繋がった
その魂の目で見ている本当の現実なのです。

そのとき、そこにはその神の目と一体になったラーマクリシュナやラマナ・マハリシの目には、
すべてが神であり、神以外にはなにものも存在していないという実相が顕現している
のでありましょう。

しかしながら私たちは依然として記憶に被われていて記憶の目で内部と外部に投影している
記憶の姿を見ているのであり、記憶が払われ私達が清まらない限りは、私達は神を呪い、「神
がいるのならば何故この悲惨な状況から救い出してくださらないのか・・・と慟哭するしかな
いのでありましょう。

もし私たちからこの記憶が取り祓われて思考が停止するならば、そこには恐怖もなく不安もなく
暴力もなく、本来の神の姿を知覚認識する「目」が姿を顕し、その目には全てが完全完璧に
愛だけが神だけが見えていることでしょう・・・そして勿論その思考なき目には、他人と分離
している私は存在していないことでありましょう。
その時私は肉体と同一化している記憶から解放されて、「私は生まれることも死ぬこともない」
と言う実感を持つことでありましょう。そして誕生日を祝うことがなくなるでしょう。