思考とは動きなのです、動きとは即ち時間です。
思考が止まると動きが止まり時間が止まります。
そして私がいるという感覚は去って行きます。
(※そこには思考には知覚されたことのない現実が顕現
して『認識される』のでありましょう)
即ち自己自我とは思考の時間によって組み立てられています。
・・・クリシュナムルティー
私の感想
時間の感覚は思考が興していると言うことなのでありましょう。
”私と言う自己自我”とは思考の実感なのであると
言うことでありましょう。
それはこの自己自我とは思考なのだと言うことであります。
本来の自己の意識が表面意識に表れてくる度合いに応じて
この私を騙っている思考の私自我の事がよりハッキリと見
え始めてくるのであります。
即ち思考が停止しているその時の知覚認識には知覚認識はあっ
ても、その知覚認識は従来の知覚認識ではなくて、その時の
知覚認識には知覚認識している私自己がそこにはいないとい
うことなのでありましょう。
自己自我が存在していない知覚認識がそこに発生していると
言うことでありましょう。
従って、思考がもし、停止したのならばきっと他と分離している私は
そこにはないことでありましょう。
おそらくそこでは、時間がストップしてしまっているということで
ありましょう。
思考が祓われ、清まり、薄まる度合いに応じて思考に被われていた
「意識」なるものが姿を顕し、
周りの動きが遅く感じられはじめ、
その「意識」が顕れてくる度合いに応じて思考が遅く感じられ始め、
思考のことをよりハッキリと明瞭に明確に見ることが出来る・・
ということでありましょう。
ということはその「意識」は思考より早く、思考より広いので
思考より早く知覚認識し、思考より広く知覚認識している・・
ということです。
やがて思考の動きが止まり時間が止まる・・それは「意識」が
出現することによって思考が遅くなるように知覚認識され
始めるから・・しかし元来から有った「新たなる意識」はそこ
に有るというような状態が現出するのでありましょう。
それは、具体的な事象としては自らが思考よりも早くなるので
時間が進むのが遅くなり始め
映画マトリックスの主人公のように、ピストルの弾さえもハッキリ
と見ることができるようになり、弾を避けることが
出来る様になるということなのでありましょう。
クリシュナムルティーは思考が停止するとき時間は止まる。
と言っています。そして時間が止まるときこの自己自我は
存在していないのです。そこには自己自我が存在していない
知覚認識が姿を顕しているのでありましょう。
クリシュナムルティーが言う「思考とは時間であり、動きであり、
思考が停止すると、時間が停止し動きが停止する」とは、そういう
ことを言っているのでありましょう。
脳科学者が言うように
「行為が起こった後にその行為の選択が起きている」のでしょう。
記憶の反応である思考とは動きが遅いので、きっと起こっている
出来事(行為)の後に思考はその「起こってしまった」行為を
「自分が行為を意志した」と思っているのかもしれません。
現在の人類はそのような思考による知覚認識の状態の中にあります。
行為が起こった後に、思考は自分が意志して、そして自分が行為して
いると錯覚しているわけです。
「思考は起こっている行為や出来事に参加していない」と
言われております。
これは非常に現在の私達にとっては受け入れがたいことですし
常識や日常の通常感覚では考えられないことです。
まったく訳が分からず、何を言っているのかも分かりません。
私達は思考のことは殆ど気にせず、真剣に思考のことも考え
たこともありません。
ただただ通帳の残高のみに集中して生活し、死に向かっての
毎日の営みを繰り返しているだけです。
そのような私達にとっては、思考が停止している目に映る情
景のことは、全く関心もなく、思い知るよしもありません。