「鏡を見るのではなくて鏡として鏡から自分を見なさい」


「鏡を自分の中に持ちなさい」・・・服部智恵子(初代日本バレエ協会会長、私の仲人)


私の感想

私がバレエダンサーとしての現役時代、よく服部先生から「久保君!鏡を見
るのではなくて鏡として、鏡から自分の姿をしっかりと見なさい」「鏡を自
分の中に常にしっかり持っていなさい」と言われたものである。

これはいまもなお非常に難しく理解するのが一苦労する言葉である。

勿論、服部先生は、クラシックバレエの指導者であって、精神世界の指導者では
なかったのであるが、そのバレエに対する純粋さと愛の深さと、バレエのみならず
あらゆる事への慧眼には、驚くべきものがあった。直観ではなされていたのだろう。

先生の指導があまりにも奥が深いので、一度「先生はなにか宗教の指導者に教えて貰って
いるのですか」と尋ねたこともあったくらいである。

先生のクラシックバレエの本質を極めたその目と精神はあらゆる道にも通暁してい
るのだと、感服したことがあった。

私の現役時代「久保君!どこを見ているの!」「あなたの目は内部を見ていないわよ!!」
等と叱責を受けたこともあるくらい。深い人間への洞察の目を持っておられた。


どのバレエ教室にも鏡がデンとして正面にあるわけであるのだが、それが
神道の「御鏡」と同じであることを知っている人は少ない。

踊り手はそのスタジオの鏡を通じて自分の姿を見るわけであるのだが
・・誰がそれを見ているのかが問題である。・・とそのように思い
を馳せることは、ほとんどないことだろう。

自分が自分の姿を見ているのは、見ている私とは常に利己的であり
必ず自己本位、自己関心の観点から自己を観察しており、それを
普通では自分が見ていると思ってしまっている。正しく見るため
には見ている私がいないこと。自分が忘れ去られていることが
前提となる事だろう。


・・そのような「見ている私がいない目」が正しく見るために
は必要なのであるということなのだろう。

服部先生が言いたかったこととは自己の観点からではなくて、
自己が忘れ去られた目でもって自己を客観的に見なさいというこ
とであるのだ。

だから通常の鏡を見ている状態・・それは即ち自己関心から自己を
見ている状態のことであり、それでは色眼鏡で見ている事であり
服部先生の言う鏡として自分を見ていることには至らない。

服部先生は鏡を通じて主観で自分を見るのではなく、鏡として鏡から
の目で以て自分のあるがままの姿をハッキリと曇りなくみなさいと教
えていたのである。


一般的には鏡に映る自分の姿を見ているのは客観と称しても、所詮
それはつまるところは、自分の立場から自分を見ている、即ち自己
イメージで自分を見ている主観であるに過ぎない。

それは畢竟未だに自分の主観で自分の姿を歪曲して見ており、それは自己
イメージで自分を見ているのであって、鏡として鏡から自分のすがたを見
ている正しい客観とは異なっているのである。鏡は私なく私を見ている目
のことである。


そこの相違点を服部先生は熟知しておられて、「久保君!鏡を見るのではなくて
鏡として、鏡から自分の姿をしっかりと見なさい」「自分が鏡でありなさい」
「あなたが鏡なのよ」「鏡を自分の中に常に持っていなさい」とクラシック
バレエの極意を教えてくださったのである。

「有るがままの自分をあるがままに見て受けいれそしてその自分を愛すること」
これが、自己変革、自己修練の始まりであり、バレエの極意に他ならない。

鏡を通じて自分が自分が持っている主観、自己イメージで自分の姿を見る
のではなくて、鏡から鏡として自分のあるがままの姿を凝視することが自己
の変容の始まりなのである・・と。

これなくしては人生というレッスンが始められないのである。

確かに鏡に映る自分の現実の姿を鏡として見ることは苦痛であり、葛藤
でもあることだろう。自己暴露でもあるからだ。・・・しかし、その
「自己の姿をあるがままに観ること」が自己からの解放へと導いてくれ
る最重要なレッスンなのである。

目に映る他人の姿とは自分を映しているのであると言われている。

一瞬も油断することなく、自分の姿を凝視すること
日常生活で起こっている良い事と悪いことに対して反応している私に対して、
即ち失敗や成功、病気や健康、幸運と不運に対して反応している私に対して、
内部に沸き起こる欲望や恐怖や苦痛や、不安や、嫉妬心や、イライラや増上慢に
対して反応しているこの私に対して、
これらの私の現実のあるがままの姿を見逃さずにただただ自己を凝視つ
づけること。
「観察されている私とは、その観察している私に他ならない」
ことに気がつくことであろうか。


見ている私と見られている私・・・
・・その心の中で繰り広げられている善と悪、幸と不幸、失敗と成功
、健康と病気、恐怖と満足、内部と外部の起こっているそれら出来事に
対して
・・・休みなく反応して、喋り続ける記憶の私に愛と感謝を捧げ
ること。自分が自分を愛すること、自分を許すこと。

それなくしては自己の浄化はあり得ないのであると。

その自分が鏡として「自己イメージではない現実の自分」を発見し
直視することは確かに「産みの苦しみ」「脱皮の葛藤」を伴う苦痛
であろうが、自己からの解放への道はこれ以外にないのである。

あらゆる道の、あらゆる教えの基盤はこの自己凝視であり、この基盤
なくしては浄土宗やホ・オポノポノの「真言」も、神道の禊ぎも、キ
リスト教の「主の祈り」も、あらゆる「神仏への道」もあり得ないの
である。

クラシックバレエの指導を通じて服部先生から教えられたことはいくら
感謝しても仕切れないほどに大きいものであった。