■本能的意識状態
肉体と結合した私達の諸体は殆ど形成されていないので、条件付けら
れている脳の本能が意識を支配している状態。脳の状態がそのままそ
の本人の私という表面意識状態となってしまっております。
本能の向くままに本能にコントロールされて思考し行為している状態。
諸体や意識からの思考や感情はまだ殆どなく、本能のままに生きている状態。
マスコミや社会、地域、伝統、教育によってマインドコントロールさ
れ、それに従って、生存し支配され思考し行為している状態。
条件付けられている肉体脳が齎している私。その私の意識。
言うなれば動物としての私。動物状態の私。
(しかし脳や肉体自身は神のものであります。)
■潜在意識的意識状態
私達である心(表面意識)が潜在意識にある「私という観念・我の心」
に完璧に占領され支配されている意識状態のこと。
しかもこの段階では私達の心がその我の心によって占領され支配され、
見ること、話すこと、思う事、行うことの全てがこの記憶によって行
われているということに全く気がついていない状態であります。この事に
気がついて、自らを浄化し浄める事を始めることがこの段階での必須
な生き方となります。(神道の払い給え、浄め給え、幸はえ給え)
そしてその浄化の結果として私達の思考体、感情体が徐々に形成が
進み、その意識が動き始める事が出来る。但しその前は記憶が熟考し
分析し評価判断している状態。即ち記憶の反応からの思考や感情や
行為に私達が支配されている状態。
(思考や感情や行為が記憶によってコントロールされている状態)
この潜在意識の記憶は自分を肉体であると信じ込み、肉体の死で自分が
死んだと思っていますが、実際は肉体の死を経てもなおも生き続ける
記憶の私。そしてその記憶と一体化してしまっている現在のパーソナ
リティーの意識状態。現在のパーソナリティーの本体は我の心では
ありません。神の子なのだといわれております。
またその潜在意識の記憶とは行為が起こったあとに「私が行為している」
と錯覚し、思考や意志が起こった後に私が思考して私が判断し決断したのだ
、「自分が自分の自由意志で行為している」と錯覚しているので、常に自分
の将来や、自分の人生、日々の生活のこと、経済や健康を心配して自分が
生きて自分が行為して自分が自分の意志で思考していると思い込んでおり
ます。ですので実際の人生では、DNA(カルマ)の指示の元に行為や
出来事は起こっているのですが、私達を占領している記憶は自分が判断し
選択して行為したのだと思っていると言うことであり、さらに複雑なのは
現在のパーソナリティーである意識の私は記憶と一体になっているので
その記憶の反応にただただ支配されて従っているだけであります。
このような状態では私達には自由は全く存在していないのです。
だからこそ私達は記憶と一体化せず(即ち自分と一体化せず)、人を比
較したり、判断したり、評価しないように努力する必要があります。
肉体は自分の肉体であり、自分がこの人生を自分の力で生きているのだ、
自分の自由意志だ、自分はその自由意志で自分の人生を切り開き努力し
生きているのだとその様に我の心は錯覚し続けております。
・・・それが記憶(我の心)であります。それゆえ私達である表面意識
は記憶(我の心)から離れ正しく思い、正しく行うことが大切なのです。
潜在意識的意識状態とは肉体的観点から見れば太陽神経叢付近の潜在意識
にある潜在意識の記憶層に意識が結合し意識が記憶に覆われている状態で、
潜在意識の記憶、即ち思考と想念、感情に支配され、それらが持っている
理論的知性や哲学的理性や科学的思考によって「世界とは自分とは別のもの」、
「私の外部は私の内部とは異なっている」と、「あいつが悪いのだ」と相手
とは本当は自分自身であるのに相手を非難しています。
本当は他者や世界は自分の姿であるのに世界や他者を私の対象として知覚
認識している意識状態。その意識状態が表面意識となってしまって
おります。人格・エゴ・私とは実際にはこの記憶なのですと教えられています。
所謂科学的思考の状態。科学的思考が全ての正しい思考だと錯覚している
ところの今日の文明文化はその記憶によって築き上げられております。
それらが記憶の働きであります。しかし記憶は本当の私ではありません。
わたしとは意識であり、私はあなたであり、私は万物であるのに・・・
(現在のパーソナリティーとは肉体ではなくて諸体なのであります)
私とあなたを分割し、万物と私を分割し、世界と私を分離して、神と分離
分割されていると錯覚する「私という観念」の記憶が意識を完全に支配し、
コントロールしているので見ること、思う事、感じる事、行うことはこの
「私という観念」の記憶が全てを支配し感じ思い考えそして行為している
のであると言われているのです。
この記憶が私達を支配して行為しているので、本当は見ている相手は私自
身の姿であるにも拘わらず「悪いのはあいつだ」「世界は救いがない」
「世界を何とか変えなければならない」「あいつを何とかしなければ」と
この記憶は対象とは私の姿であるのに自分と対象が別だと思っています。
「私が対象を知覚している」という分離した自己・私というものが知覚
しているのです、そしてその記憶が「この私は私である」と錯覚しております。
しかしながら実相はラーマクリシュナが言うように神がその自我・記憶
を使って生きて行為しているというのであります。
そしてその記憶は「私は人生で生きており、私が行為している」と信じて
いますので「私の将来はどうなってしまうのだろうか?」「私のビジネ
スはどうなるのだろうか?」「私の明日の収入はあるのだろうか?」な
どと、行為は神がなしているのだと言うことを悟っていないのです。常に
「私はどうなるのか・・・」「私の生活は?」など自己を中心に思考し
将来や生活のことをいつも心配し続け不安と恐怖に包まれ常にイライラ
して心に安らぎがありません。・・それが記憶であります。
その記憶が自分が行為していると錯覚して、人生は自分の人生であると
確信しています。そしてその記憶に占領され汚濁している意識であるこの
現在のパーソナリティーの意識の私(諸体の私)は記憶の反応を私だ
と錯覚しているのであります。
この相手を非難し世界を自分ではないと思っている私とはプライドで満ちた
自我、即ち条件付けられている脳が齎している想念・感覚・記憶の私のこ
と黒住宗忠のいう「人の心ではない我の心」なのであります。
そういうことで通常の日常生活でこの出来事に反応している私とは記憶の
反応なのであり、今回の人生での潜在意識を穢す記憶部分の私。
表面意識が一体化してしまっている私ではない私なのであります。
平たく言うとこの人格としての私のことであります。悩み苦しみ、痛み、喜
怒哀楽し、宝くじが当たって喜び、病気になって苦しみ、将来や生活や健康を
心配して考え悩み苦しみ暴力的なのはこの人格の私です。意識の私ではありません。
今生の人生で形成された記憶の部分、即ちそれは個人の私。人格の私のこと。
その私が表面意識を占有し表面意識となってしまっています。しかしながら
この私は今生での私であり、前世から継続している私(たましいと繋がるコ
ーザル体の私)なのではありません。
この今生の人格の私は死後霊界で生き続けていても転生している生き通しの
私なのではありません。
各転生を通じて生き通しの私とは次の段階の私即ち魂からのコー
ザル体の私、シャンカラのいうアーナンダマヤコーシャの私なのであります。
この今生での人格の私は肉体の死後、再誕生時には霊界でこのコーザ
ル体に収納され、このコーザル体は新たなる人格として再誕していく
といわれております。
しかしそれらのことをただ単に知識として頭で知っているのではなくて
表面意識が記憶の反応から徐々に解放され愛と感謝に満たされていなけ
れば、本当の理解はありませんから次のステージへ進むことが出来ません。
思考や想念や行為そのものが駄目なのではなくて、思考や想念や行為が
私という観念(根本自我)の記憶によって占領されているからなのです。
心である表面意識が浄化され記憶が払われなければ記憶に支配され続け
ています。それ故に毎日の生活に於いて表面意識は記憶と一体化しない
ように努力を重ねなければなりません。
■意識的意識状態
ここで云う意識とは、「私という観念」が起こしている記憶の反応や条
件付けられている脳が受信する「私という観念」のことではありません。
意識とは記憶の反応である思考や感情を観照している意識のことであり、
それは「他と分離している自己意識の私」「感覚主体」のことではなく
て、その私・自己という知覚主体や認識主体が顕れては消える去る「白
紙のスクリーン」「意識の鏡」「意識の座」と呼ばれている透明な意識
のことであります。表面意識の事であります。
この意識的意識状態とは
「私は思考や感情という記憶の反応ではない」「観察者は観察されるもの」
という透明純粋な意識が生じている段階の意識・新たな知覚のことであります。
表面意識が思考の反応ではなくなっている意識状態のことであります。
記憶を観照する意識が目覚めつつある意識状態であり、本来の意識、すなわち
本来の高次思考や本来の感情・高次感情、そして本来の自己それは魂に繋
がる諸体、特にコーザル体とよばれている永遠の原子の意識が芽生えてき
ている状態での意識であると言われております。
思考や感情を分析したり評価したりせずに観照する意識の事であり、自分が
記憶に包まれ、記憶の奴隷となっていることを認識している意識の事であ
ると言われております。
この意識的意識の段階から超感覚的意識の段階への移行は神聖なる聖霊の
恩寵が必須であり、神への本当の全託がその条件となります。この意識は
否定的に「私は思考ではない、私は記憶ではない」という意識の事でもあり、
「見るものは見られるものである」を自覚している意識の事でありましょう。
これからの地球人類が向かう意識状態とはこの「意識的意識状態」であると
言われております。この意識的意識状態では諸体の形成が始まり、諸体の
能力を使っての次の超感覚的意識状態へと進んでいきます。
今生の記憶の人格である私々を繋いでいる永遠の原子・コーザル体の私は
生まれず死なず生き通していて、一定の傾向を持ち毎回の転生で経験を繰り
返し、進歩し又堕落する私(人格)の中核である生き通しの私。歓喜体とも
いわれております。
この私は記憶(無明)に覆われていても次の永遠のパーソナリティー(観
照者・永遠の原子)と繋がっていることを確信している状態の私のこと
でありましょう。
次の段階へと進むためには神聖なる聖霊に祈り、全託し、愛と感謝を捧
げ、そして恩寵が齎されることが必須であると言われております。
ミルダッドが言うように「人々は死ぬために生きている、それゆえ
私達は生きるために死ななければならない」のでありましょう。
■超感覚的意識状態
思考体、感情体即ち神道で言うところの四魂の成長にともなって生じ顕現する
成長した諸体の意識の事。神聖なる聖霊からの恩寵によって齎された意識の事。
肉体を超え、時空を超えて拡がった諸体の意識の事。その成長した諸体の意識
がそのまま表面意識となり、自己意識となっており、その成長した諸体の意識
は世界で同時に多くの異なる場所にいたり、そこの場所で見たり、その場所で
聞いたりすることが出来ている超感覚的意識状態。
高度のテレパシーやテレポテーションや分身を使い、同時に時間の制約を超え
てあらゆる時代のいろんな場所での出来事を見たり聞いたり出来るようなり、
この物質界だけではなくあらゆる現象次元界に精通し、神々や精霊と交流した
り癒やしたりすることが出来る意識状態のこと。私自己が時間と空間の束縛を
超えている諸体の意識となり自己意識となっている状態。諸体が再形成されて
いる状態。
私という観念が徐々に清まりこの超知覚が表面意識となっている私のこと。
但しこれは俗に言う超能力や霊眼や霊聴のことではないといいます、それら
巷での超能力とは成長した諸体の意識ではなくて諸体の病気なのであるとい
うのです。
話は又元に戻りますがこの超感覚的意識とは脳の意識ではないので肉体が
眠っていてもそれに左右されることはなく、殆ど肉体的にも眠ることはない
ということであります。それはまた夢を見ることもなく、夢を見るとしても
夢を見ているという自覚があり、夢の中で自由に動けるというのであります。
この本来の意識とは目覚めているので肉体や脳や思考や夢や眠りを観察して
いる意識であり、肉体でもなく、エゴ・プライド・私ではないのですと。
ですのでその意識自体は神々と交流している意識でもあるというので
あります。
この超感覚的意識には魂の意識が表れ始めているので「私・自我」と
いう「私のもの」「私が」「私は・・」といった自我の感覚、プライ
ドが減少してまいります。私が最早存在していないのであります。
「私の名誉」「私の財産」「私の銀行預金」「私の健康」「私の国」
「私の民族」「私の家族」「私の夫・妻」「私の評価プライド」「私の霊的
進歩」「私の将来」「私の進化」「私の肉体」「私の苦痛」「私の将来
はどうなるのか?」「私の日々の糧は、生活は?仕事?収入は?」など
といった「私・自己」を中心にした自我・記憶から発生しているそれら
の想念や観念がこの段階の私では徐々に失われていきます。
何故ならそれらの「私・プライド・自我」こそ私という観念の記憶に他
ならないからであります。この記憶が潜在意識から浄化されていくに従
って「私のもの」「私は」といった分離している自我意識が減少してい
くのだと言われております。所有の観念が消失するのです。
しかしながら神や神々と交流していてもそれらを対象として見ている意
識段階であり。神々と話している段階の意識であり超意識的意識ではあ
りません。
この意識段階を超えたところに次の「神と私が一体となっている」超意識的
意識の段階があります。それは主体と客体に分離していない「見るものは見
られるものである」の不二一元の意識なのでありましょう。
というわけで、この超感覚的意識状態とは永遠の原子と一つになったのであり
その私は各転生を通じて生き通して生まれず死なないコーザル体の私の意識の
こと。(シャンカラの説くアーナンダマヤコーシャのことでしょうか)。
神道で言う四魂が再形成されているので世界の何処にでも同時に存在する
ことが出来て、聖霊の恩寵により「自由」となった現在のパーソナリティ
ーのことでありましょう。
自我である【他と分離していると錯覚する「無知・無明」】から解放され
た人、即ち転生している主体であるこの永遠の原子(アーナンダマヤコー
シャ)と一体になった現在のパーソナリティーのこと。
諸体(四魂)が目覚めて再形成された私のこと。
でありましょう。
■超意識的意識状態