肉体を動かしているのは誰か?
肉体を動かしているのは誰なのか?と思ったりすることがある。
・・・肉体を動かしているものとは、通常は肉体に入った私だとそう思うことだろうが
しかし本当にそうなのだろうか?
肉体を動かすことができるのはそれは、肉体を造り、生と死をあらしめ維持しているものなのではないのか?
・・・と思ったりもする。
頭脳を造り、複雑なる構造であるDNAを造り、動かし、才能と障害と、健康と病気とを造っているおられるのは
誰なのであろうか?
それは誰もが疑わないこの記憶という意識的自己なのであろうか?
この意識的自己とは記憶の反応であり、その記憶が肉体を動かしていると教えられている。
この記憶は太陽神経叢にあって行為をしていると言われているのは分かるのだが・・・
行為とは人体のこれほどの脳と神経と筋肉の連携プレーを必要としているのである・・まさに神業なのである。
ひょっとして、行為とは神の業なのかもしれない。では神が記憶を使って行為されているのであろうか?
それを記憶が自分が行為していると錯覚しているのだろうか?
神が肉体を造り、呼吸しており、生きておられる・・そして神が脳と記憶を使って、神が
思考し行為しておられるのだろうか・・・・。なのに記憶が自分が行為していると信じ込んでいると。・・・
ラーマクリシュナは神が生きて、神が思考し行為しておられると言うようなことを確か本の中で
言っておられるのだが・・その影響を受けてであろうか・・私もそうなのかもしれないなぁ~などと思うことがある。
そして、もしそのことを本当に直に直接に知覚し認識したとき、如何なる「気づき」が起こるのだろうか?
その時には、誰も裁かないし、どんな人も尊敬に値しない人はいないことだろう。
なので、もし行為と言うものが神が動かしている記憶によって起こっているのならば
その理解がある時には、すべてが神であり、神しかいないことだろう。従って私はいないことだろう。
私が行為していないとき、私はおらず、その目にはすべては完璧完全であることだろう。
自然界に弱肉強食と生死を見ているのは記憶(人類全体で一体の)からの思考であると言われている。
それは人類共通の自他に同じ記憶の思考が自らを投影してそのように見ているのであると。
記憶からの思考が無いとき実相が見られるということだろうか。
そしてその目には世界は完全完璧へと変貌していることだろう。
そのためには
ホ・オポノポノの言うように「言霊」の御ちからをお借りして
自己と内外を分離して見ているこの観察者・記憶を「愛しているよ」と唱えることで記憶から
脱出するという恩寵がおこるという。
それは、記憶(私という観念)の反応、暴力的で、尊大で、利己的で支配欲に溢れる
あるがままの自分を「愛しているよ」と言うことだと。質問や願望や問題を愛することだと言う。
このあるがままの自分(万物一切)に「ありがとうございます」ということ。
このあるがままの自分(有情・無情の万物一切)を判断や評価を交えず礼拝すること。
自分(有情・無情の万物一切)に懺悔し、自分(有情・無情の万物一切)に許しを請うこと。
すなわち
言霊の力をお借りしてあるがままの自分を愛し、自分に感謝し、自分を礼拝するとき
それは即ち、万物一切を礼拝し、感謝していることになるとき。
ヒューレン博士の言うような「記憶のクリーニング」がやってきてくださるのかもしれない。
またはKの言うように「観察者は観察されるものである」「私自身が恐怖である」との直接の理解があるとき
そして恐怖を見ている自分と恐怖が分離していないときそこに愛がそっと姿を顕すのかもしれない。
・・・・と頭だけなのだが・・そのように思ったりする。