「思考の過程のみがあり、その思考を制御することができる思考者はい

 

恐怖について何かしようとしている実体それ自身が架空のものなのです。

 事実あるのは恐怖だけです。

 見守っているものも、また恐怖なのです。・・クリシュナムルティー

 

このことが明らかなら、観察者は観察されるものであり、思考者は思考であ

り、行為者は行為であり、そこに分離はありません。

 

私とは思考なのです。思考している思考者ではなく。

そして、この「思考者は思考である」「思考のみがあって思考者はいない」

と云う理解は、直接の経験でなければなりません。

このような理解があるとき、思考を超え出る可能性があります。


・・クリシュナムルティー


私の感想

このクリシュナムルティーの言葉を理解するためには

数え切れない程の転生での超努力と恩寵を必要とする

ことなのだろう。故に私にはさっぱり理解出来ないのだ。


しかしながら

ここでクリシュナムルティーが言っている「思考を超え出でる

可能性が有る」と言われているのはだれのことだろうか?


そもそもが、その「思考を超える可能性」が私達に全く存在

していないのであるならばクリシュナムルティーは上記の

ことをわざわざ話す必要はないのであるからである。


結論として私達には「思考を超える可能性」があるのである。

であるからこそ

クリシュナムルティーは私達に「思考なく見なさい」

と語りかけているわけである。私達は思考を超えた

真理の種子なのである。


クリシュナムルティーはどの私達に語りかけておられるのだろうか

それはどの私の事のことだろか?


それはこの思考の私に覆い尽くされているという現在のパーソナリ

ティーである私の事だろうか?

それはどの私だとは言えないのではないか。何故ならば私達は思考の私と

意識の私が区別が付かない程に混濁し、坩堝状態であるからである。


魂と繋がっているという現在のパーソナリティーの私とは、未形成の諸体

の私の事なのであろうか?

それともこの現在のパーソナリティーの私を覆い尽くしているこの私、

即ち思考の私、記憶の反応の私の事なのだろうか?


では具体的に今これを話している私とはどの私なのであろうか?


現況では、この目が覚めていない現在のパーソナリティーである私と、

記憶であり思考の私は一体化しているので、混合している。区別は

不可能である。私の意識は記憶の反応である思考と混濁している。


しかし混濁していても私達は思考なのではないと言われている。

現況がそのようであるから私達は自分を知ることが出来ないのである。


通常の意識と思われているものは、脳の条件反応であり、記憶の反応で

あるので、私達の表面意識である記憶の思考で以てそれを識別すること

はできないといえるので、白黒を付けることは思考の罠に陥ることなの

であろう。


であるから思う事、行うこととは思考が起こしていると同時に思考の私には

未知である「魂と繋がる現在のパーソナリティー」が思考し行為していると

いうこととなるのである。

(それゆえに現在のパーソナリティーは思考が起こしている行為と思考の責

任を負うのである。即ちカルマを負うのである。)


私達が起こす思考と行為は非常に重要なのである。

思考は実現化し、思考は想念形態・エレメンタルを生み出すからである。


思考と行為は起こっていると同時に起こしていることともいえるのである。


現況では現在のパーソナリティーは記憶と混合して記憶に支配されている

のでそれを識別することはできていない。


従ってプログラムと運命によって刻印されて起こっている事に対して自動的に

反応している記憶が起こす思考と行為は現在のパーソナリティーに責任がある

のであると言える。


それゆえに一切万物に対して、内部と外部に対して

「愛しているよ」「ありがとう」を唱えることは、思考の行為、思考の想念

であっても、それは現在のパーソナリティーが起こしていることにもなるの

である。

「愛しているよ」「ありがとう」は思考にとっては嘘偽りであっても、

また未熟で混濁し、泥にまみれ穢れていても、魂と繋がる現在のパーソナ

リティーにとっては偽りではないからである。思考と行為の力を使って

思考と行為を浄める事が重要なのである。


それを知覚の面で考えれば

現在のパーソナリティーの知覚とは脳と結合し脳の知覚に限定されている・・

ということは現在のパーソナリティーである諸体は未発達のため

現在のパーソナリティーの知覚が自身であるサイコノエティック体

の超知覚ではないといえる。それゆえに私達は脳が眠れば眠り、脳

が痛めば痛み、脳が病気になれば病気になってしまうのである。私達は

記憶が起こしている思考や感情や想念と同一化しているからである。




クリシュナムルティーはこの既知なる私とは私という観念による

「私という思考」即ち思考だと言っているのであろう。


そしてこの「私・思考」こそがこの既知である現在の私の状態のことでもある。

しかしてこの既知なる私とは魂と繋がる現在のパーソナリティーの私、

記憶にとっては未知である意識の私、諸体の私なのではない。この私は

諸体から成る現在のパーソナリティーが一体化してしまっている記憶の

ことである。・・と同時にこの記憶の私も現在のパーソナリティーを

構成している私のことでもある。現在のこの状況は意識と記憶とが混合状態に

あり記憶(私という観念)が思考と行為の主導権を握っているのである。


現在のパーソナリティー・・それは今回もまた前世と同じように大生

命と一緒にカルマによって決められプログラムされている肉体や諸体

に結合し、脳に縛られ、脳の知覚や、脳の健康状態に左右され、


記憶という思考に包まれて「思考と同一化してしまっている輪廻している

私」の先端の部分のことであろう。


その私が生み出したのが想念形態の私、エレメンタルの私、人格の私、

自分自身だと思っている潜在意識にある記憶・・即ちこの私の事でもあろう。


それ故にここには同時にこの混合しているこの私がいる。

・・それは輪廻の度に、記憶に包まれ、目が開いていない現在のパーソナ

リティーの私、サイコノエティック体の私、今回の転生での「新たなる人

格の私」の事なのである。


それは数珠の先端の玉とは、その数珠を繋いでいる糸によって数珠が成り立

っているように幾多の私・人格の私のことでもあり、永遠の原子によって現

在のパーソナリティーたり得ていると教えられているのである。


その現在のパーソナリティーであり、魂と繋がっている私とは数珠の

先端の玉であり

未形成のサイコノエティック体を持っているが記憶の私と同一化して

しまっており脳に縛られている「意識の座」「意識の私」の事でもあろう。


諸体が再形成されていないので「自分の事を肉体だと思っている私」。

「潜在意識の記憶」と完全に一体化しているのが、この「未覚醒の私」

「魂と繋がっている現在のパーソナリティー」ということなのであろう。


この記憶の私と混合している現在のパーソナリティーの私は

潜在意識の記憶の反応・・即ち思考と完全に一体化しているので

現在のパーソナリティーにとっては記憶が行っている思考と行

為が重要となるのである。



・・・この上記の説明は非常に複雑なので申し訳ありません・・


私達とは神道的にいえば直霊からなる「一霊四魂」・「神の子の私」であり

この四魂からなる現在のパーソナリティー(セルフエピグノーシス)

であるが、いまだ殆ど自己意識化せず、諸体が成長していないので

「私という観念」の記憶に取り囲まれ、その私と一体化している

と言うことであろうと思われます。