人間と神を分かつことは出来ない。
それゆえに
人間を同胞達や〈言葉〉から生じた全ての生き物た
ちと分かつことは出来ない。
敵と味方は同じ。
善と悪は同じ。
事物は善でも悪でもない。
敵と味方、善と悪に分けてはならない。
これを理解するとき
その時、その理解それ自身があなたの手にある武器
にすぎなくなる。
その武器によってあなたは死を制圧する。
・・・ミルダッド
※ここでミルダッドが言う〈言葉〉とは聖書で聖ヨハネが言
う「はじめに言葉ありき、言葉は神なりき」というスパー
サブスタンスとしての神の言葉を指しており、私達の記憶の
反応であり、物質化する言語・言葉のことではない。
私の感想
敵や味方とは心の病が起こしている知覚認識である・・と
同じく善と悪の判断も心の病が起こしているのである・と
私達にその敵味方という区別や、善悪という知覚認識が
なくなったとき・・その理解によって「死」はなくなると。
・・即ち、その聖霊によって齎された理解によって現在意識
の意識中枢が頭脳から諸体へと繋がったからであると。
諸体は死後、霊魂と共に肉体を離れていくからであると。
言葉を換えて言えば脳に縛られている私達の現在意識が
諸体との繋がりが意識化出来るまでに回復したからであると。
その時そこには
「肉体」は私ではない・・という確証が興ると言うことだろう。
その聖霊によって齎される理解とは・それは高次マインドで
ある事だろう。
マインドは一般的に思考と訳されているけれども、思考に
は色々と段階があるように、私達が一口にマインドと言っ
ていても
「スパーサブスタンス」
「サブスタンス」
「超物質」
「物質」・・と色々あり
私達の住んでいるこの現象物質界での
あらゆる自然界は鉱物も植物も動物も含めて神のマインド
である「スパーサブスタンス」で成り立っている。
のであるのですけど
それの上に、私達人類が低次マインド=思考が物質化し社会
文明を創り上塗りしてしまっていると。
これがこの社会、この現象物質世界である。ということでしょうか。
この世界とは私達の創作した思考によって神の創られた
自然界に上乗せして(上塗りして)造り上げた世界なの
であるということでありましょう。(特に病気などは)
私達の死後の幽界もこの物質界と同じように、本来の「サブ
スタンス」のうえに、私達の低次思考という想念によって生み出
された超物質が上乗せして「死後の世界」が構成されている。
と言われています。
「思考は物質である」と教えられているように、
この物質界においては神聖なる高次マインド「スーパーサブス
タンス」によって創造されている大自然の動物や植物という
自然界の上に、私達の低次思考が生み出し、創造した物質に
よって汚染されてしまっている。と言うことでありましょう。
「思考は現実化し実現する」
「思い念ずることは想念形態(マインド)を生み出し実現
化する」
私達はこの世界、この文明、この現在の社会を私達の思考
から創造した物質によって、大生命の本来の「スーパーサ
ブスタンス」によって創造されている大自然を損なってい
るという事であります。自我の欲望から創り出した想念が物質化して
造り上げたのがこの文明世界であります。
大自然界の上に上塗りし、想念形態で物質を創り出し大自
然を穢していると言うことであります。
これは思考は実現化する・・を誤って使用しているからで
ありましょう。思考は実現化するを自我は自分の欲望を実
現化するのに誤用しているのです。
思考は物質であり、その思考は私達から生み出されており
私達現在意識は思考の行使には最大限の注意が必要であるのに
その「思考は物質」であることを逆手にとって自我が欲する
ことを実現するために使うことは間違っているのであります。
自我の欲望実現の為に、その思考の実現力を利用することは
まさに本末転倒であると言えるのではないでしょうか。
ではその思考を正しく使用することはこの自我にまみれた私達に
可能なのでありましょうか?
私達が自我に被われてしまっている以上は、私達が創り出している
思考・想念形態は自我によって穢されているのではないでしょうか?
ですので私達は非常に注意深く思考や感情を自我の思考や感情と
同一化することなく用いて、思考の実現化の力を正しい方向へ
使用する必要があるのではないでしょうか?
正しい思考の用い方とはヒューレン博士が言うように「愛すること」
「感謝すること」「許しを請うこと」「お詫びすること」によって
それが思考自体を浄化することであり、思考が聖霊によって浄化
されることによって本来の高次思考が自ずと顕れてくるのではな
いでしょうか。